千家・楽家歴代等

 

三 千 家 

家祖:千利休(せんのりきゅう)1522~91(70)

堺の納屋衆田中与兵衛の子。幼名与四郎。号は宗易、抛筌斎(ほうせんさい)。茶をはじめ北向道陳(きたむきどうちん)に学び、武野紹鴎に師事して侘び茶を完成させた。織田信長、豊臣秀吉の茶頭を務め、今井宗久、津田宗及とともに天下三宗匠と称された。天正12年(1585)、大林宗套(だいりんそうとう)から「利休居士」号を与えられる。同15年の北野大茶湯にも参画するが、のち秀吉の怒りにふれ、京都の聚楽屋敷で自刃。大林宗套、笑嶺宗斤(しょうれいそうきん)、古渓宗陳(こけいそういちん)も参禅して「茶禅一味」の境地を開き、後世の茶人に大きな影響を与えた。

2世(代):千少庵(せんのしょうあん)1546~1614(69)

利休の後妻宗恩の子。千道安の義弟。名は宗淳。号は少庵。利休賜死後は会津若松の蒲生氏郷に預けられるが、徳川家康らのとりなしで許され、京都にもどって千家を再興した。晩年は洛西の西芳寺に隠棲した。

3世(代):千宗旦(せんのそうたん)1578~1658(81)

少庵の子。名宗旦。号は元伯(げんぱく)、元叔(げんしゅく)、咄々斎(とつとつさい)、寒雲(かんうん)、隠翁(いんおう)。十歳のころ、大徳寺の春屋宗園の喝食(かつしき)となり、得度して蔵主にまで上る。のちに少庵により再興された千家に戻り、弟子の杉木普斎、藤村庸軒、山田宗偏らとともに、利休流の侘び茶を普及させた。正保3年(1646)、不審庵の北裏に今日庵(こんにちあん)を建て、不審庵を三男の江岑(こうしん)宗左に譲り、さらに承応2年(1653)、76才のとき、又隠(ゆういん)を建てて今日庵を四男の仙叟宗室に譲る。生涯仕官せず、「乞食宗旦」の異名をとるほど侘び茶に徹したが、江岑を紀州徳川家に、仙叟を加賀前田家に、武者小路千家を興した一翁宗守を高松松平家に仕えさせ、千家の存続をはかった功績は大きい。


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裏千家(今日庵)

4世:仙叟宗室(せんそう)(1622~1697)

朧月庵とも号す。宗旦の末子。加賀の前田利常に茶道具奉行として仕え、北陸に茶道繁栄の種子をまく。楽一入の弟子長左衛門を指導して大樋焼を始め、釜師宮崎寒雉(かんち)に茶の湯釜鋳造の指導をするなど、この地方の工芸界にも大きな足跡を残す。元禄元年(1688年)致仕して京都に戻る。
元禄十年、七十六歳で没する。

5世:常叟宗室(じょうそう)(1673~1704)

不休斎とも号する。仙叟の長男として金沢で生まれる。父仙叟の没後宗室を継ぎ、以後裏千家では「宗室」を家元の継承名としている。加賀の前田家および伊予松山の久松家に仕官するが、このあと幕末まで裏千家では代々、加賀藩、松山藩の茶道役をつとめることとなる。
宝永元年、三十二歳で没する。

6世:泰叟宗室(たいそう)(1694~1726)

六閑斎(ろっかんさい)、宗安とも号する。常叟の長男。父が若くして没したために十一歳で家を継ぐ。幼かった泰叟は表千家の原叟宗左に親しんで茶を学ぶ。漢学を修め、書や道具の好みにも豊かな才能を発揮した。
享保十一年、三十三歳で没する。

7世:竺叟宗室(ちくそう)(1709~1733)

最々斎、宗乾とも号する。泰叟の亡き後十八歳で裏千家を継承。原叟宗左の次男。茶室無色軒(五畳敷向切り)は竺叟の時代に増築された。
享保十八年、二十五歳で没する。

8世:一燈宗室(いっとう)(1719~1771)

又玄斎(ゆうげんさい)、勿々軒とも号する。竺叟の弟。十五歳で裏千家を継ぐ。長兄の天然宗左とともに千家中興に尽くし、「七事式」を制定、著書に『浜之真砂』がある。好みの道具も多い。
明和八年、五十三歳で没する。

9世:石翁宗室(せきおう)(1746~1801)

不見斎、寒翁、玄室とも号する。一燈の長男。四十三歳のとき天明の大火に会い、両千家も類焼したが、ただちに今日庵、又隠、寒雲亭などの茶室を修復し、利休二百回忌追善茶会を営む。石翁の三男宗什は官休庵六代好々斎宗守となっている。
享和元年、五十六歳で没する。

10世:認得斎宗室(にんとくさい)(1770~1826)

柏叟(はくそう)とも号する。石翁の長男。三十五歳で家元を継ぐ。夫人松室宗江もすぐれた茶人で、養子に迎えた玄々斎の茶道教育に尽くした。
文政九年、五十七歳で没する。

11世:玄々斎宗室(げんげんさい)(1810~1877)

精中、虚白斎、不忘、寒雲とも号する。文政二年(1819年)、十歳のとき裏千家の養子となり、認得斎の娘を妻とした。父は三河国奥殿の領主、松平縫殿頭乗友(ぬいどものかみのりとも)。
三十歳の時、利休二百五十回忌に際して、表門、玄関、咄々斎、大炉の間、抛筌斎、梅絲庵(ばいしあん)を増築、摂政鷹司政通(たかつかさまさみち)。右大臣九条尚忠(くじょうひさただ)。内大臣近衛忠煕(ただひろ)などの貴顕が招かれている。維新後の明治五年に「茶道の源意」を政府に提出し、立礼式、茶箱点などを考案、新しい時代に応ずる裏千家の基礎をつくった。
明治十年、六十六歳で没する。

12世:又妙斎宗室(ゆうみょうさい)(1853~1917)

直叟(じきそう)、幽軒、玄室とも号する。京都の名家角倉家に生まれる。明治四年(1871年)、二十歳のとき玄々斎の長女猶鹿子(ゆかこ、真精院)の配偶者として裏千家に入り、家元を継ぐ。
三十四歳で家督を長男(圓能斎)に譲り、北野松向軒、大徳寺高桐院、堺などに移り住みながら、茶道の普及を図った。
大正六年、六十五歳で没する。

13世:圓能斎宗室(えんのうさい)(1872~1924)

鉄中、対流軒とも号する。又妙斎の長男で、若くして家を継ぐ。明治四十年(1907年)に茶道月刊誌「今日庵月報」を発刊、四十四年には女学校茶儀科の教授方針統一のため夏期講習会を開く。
大正13年、五十三歳で没する。宗家では毎年七月、精中圓能忌が営まれる。

14世:淡々斎宗室(たんたんさい)(1893~1964)

碩叟(せきそう)、無限斎とも号する。圓能斎の長男。京都同志社大学卒業。三十歳で家元を継ぐ。大徳寺に貞明皇太后を迎えて献茶を奉仕して以来、宮家、全国社寺へ献茶を行い、茶道界に新生面を開く。
流儀統一のため「淡交会」を結成し、学校、職場における茶道のサークル活動に力を注ぐ。
昭和三十九年、北海道で急逝。七十一歳。宗家では精中圓能忌とあわせて無限忌を行っている。

15世:鵬雲斎宗室(ほううんさい)(1923~)

大正十二年(1923年)、淡々斎の長男として生まれる。同志社大学卒業後、ハワイ大学修了。
世界各地に裏千家の出張所、支部を開き、茶道の海外普及と日本文化の紹介に力を注ぎ、また茶道のテレビ番組に先鞭をつけて意欲的に取り組む。
現在、茶道界のみならず日本文化の牽引として活躍中。

16世:坐忘斎宗室(ざぼうさい)(1956~)
鵬雲斎嫡子。京都教育大学付属高校から同志社大学文学部に入学(心理学専攻)。卒業後、昭和57年6月7日、大徳寺管長中村祖順老大師につき得度、坐忘斎玄黙宗之の斎号ならびに安名を受け、同年10月28日格式宣誓式により若宗匠の格式を与えられる。
財団法人今日庵理事長、社団法人茶道裏千家淡交会理事長として茶道界でその重責を担い、裏千家学園茶道専門学校理事長として、また多くの講習会を通じて茶道人の育成に努めてきた。エリエール・インターナショナルカレッジ・イン・ミシガン理事、財団法人禅文化研究所顧問、日本国際連合協会京都本部理事、日本感情心理学会理事、学校法人京都造形芸術大学専任講師、在京都イタリア名誉総領事。社団法人日本文藝家協会会員、社団法人ペンクラブ会員のエッセイストであり、執筆活動を行い著書も多い。昭和59年総理府国際青年年事業推進会議普及委員会副委員長、昭和60年社団法人青少年育成国民会議評議員、平成3年京都青年会議所理事長、平成6年日本青年会議所近畿地区協議会会長ほか多くの公職に就いた経歴を持つ。

 

表千家(不審庵)

4代:江岑宗左(こうしんそうさ)(1613~72)

宗旦の三男。幼名十三郎。号は逢源齋(ほうげんさい)、堪笑軒(たんしょうけん)。寛永19年(1642)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉舟宗璠(ぎょくしゅうそうばん)の推挙で紀州徳川家に仕える。『江岑夏書』を著す。

5代:随流斎宗左(ずいりゅうさい)(1650~91)

四代江岑の養子。久田宗利の子。母は宗旦の息女くれ。名は宗巴、のち宗佐。号は随流斎、良休。延宝元年(1673)に紀州徳川家の命により家督を継ぎ、紀州家の茶頭となる。大徳寺の一渓宗什に参禅。『随流斎延紙ノ書』を著す。歴代で、この随流斎だけが「そうさ」の「さ」に「佐」の字を使うことから、「人偏そうさ」と俗称される。

6代:覚々斎宗左(かくかくさい)(1678~1730)

五代随流斎の養子。久田宗全の子で随流斎の甥。名は宗員のち宗左。号は覚々斎、原叟(げんそう)、流芳軒。紀州徳川家に出仕。大徳寺の大心義統(だいしんぎとう)に参禅する。

7代:如心斎宗左(じょしんさい)(1705~51)

6代覚々斎の長男。裏千家7世竺叟宗室、同8世一燈宗室の兄。名は宗巴、宗員のち宗左。号は如心斎、天然、丁々軒(とうとうけん)、椿斎。表千家の中興。一燈や川上不白らとともに七事式を制定。紀州徳川家に出仕する。大徳寺の大龍宗丈(だいりゅうそうじょう)に参禅。元文4年(1739)の利休150回忌に祖堂を建立する。

8代:啐啄斎宗左(そつたくさい)(1744~1808)

7代如心斎の長男。名は宗員のち宗左、宗旦。号は啐啄斎、件翁。8歳で父如心斎と死別し、川上不白らの援助を受けながら、14歳で家督を継ぎ、宗旦百回忌を営む。大徳寺の無学宗衍(むがくそうえん)に参禅する。天明の大火で焼失した不審庵を再興。のち利休200回忌、宗旦150回忌を営む。

9代:了々斎宗左(りょうりょうさい)(1775~1825)

8代啐啄斎の養子。久田家6代挹泉斎(ゆうせんさい)宗渓の長男。名は宗禎のち宗員、宗左。号は了々斎、好雪軒、曠叔(こうしゅく)。紀州徳川家に出仕。大徳寺の要道宗三、剛堂宗健に参禅する。

10代:吸江斎宗左(きゅうこうさい)(1818~60)

9代了々斎の養子。久田家7代皓々斎宗也の次男。名は宗左、のち宗旦。号は吸江斎、安祥軒、祥翁、省々(せいせい)。8歳で家元に迎えられる。2代住山楊甫の後見のもとで、10歳で紀州徳川家に出仕。天保10年(1839)には利休250回忌を営む。

11代:碌々斎宗左(ろくろくさい)(1837~1910)

10代吸江斎の長男。武者小路千家8代一指斎(いっしさい)宗守の兄。名は宗左、のち宗旦。号は碌々斎、瑞翁、碧雲軒、残月守。明治維新まで紀州徳川家に出仕。明治23年(1890)には利休300回忌を営む。

12代:惺斎宗左(せいさい)(1863~1937)

11代碌々斎の長男。名は宗員、のち宗左。号は惺斎、敬翁。明治39年(1906)の火災で家屋を失うが、大正2年(1913)に再興する。好み物が歴代で最もおおい。

13代:即中斎宗左(そくちゅうさい)(1901~79)

12代惺斎の次男。名は宗左。号は即中斎、無盡(むじん)、清友軒。昭和12年(1937)、兄の急逝により家元を継ぐ。同17年、同門会を発足させ、機関紙『同門』を発行。

14代:而妙斎宗左(じみょうさい)(1938~)

13代即中斎の長男、名は岑一郎、のち宗員、宗左。号は而妙斎。昭和55年(1980)、家元を継承する。


 

武者小路千家(官休庵)

初代(4世):一翁宗守(いちおう)(1593~1675)

千宗旦の次男。名は甚右衛門のち宗守。号は一翁、似休斎(じきゅうさい)、宗次。早くに塗師吉文字屋の養子となり、吉岡甚右衛門と称したが、のち千家に復し、讃岐・高松藩松平家に茶頭として出仕。晩年、京都武者小路小川東入ルの地に「官休庵」を創建した。参禅の師は大徳寺の玉舟宗璠。

2代(五世):文叔宗守(ぶんしゅく)(1658~1708)

初代一翁の子。名は宗守。号は文叔、許由斎(きょゆうさい)。讃岐松平家に出仕。近衛家にも知遇を得る。

3代(六世):真伯宗守(しんぱく)(1693~1745)

2代文叔の子。名は宗守。号は真伯、静々斎、静斎。同家伝来の名物茶碗「木守(きまもり)」(長次郎)を自ら写し、本歌を高松藩主松平侯に献上した。

4代(七世):直斎宗守(じきさい)(1725~82)

3代真伯父の養子。九条家の臣・嵯峨家の出身。幼名は久之丞(ひさのじょう)。名は宗守。号は直斎、堅叟(けんそう)。安永元年(1772)、火災で家屋を焼失したが、同3年の一翁百回忌を迎えるにあたり再建。そのとき茶室「一方庵」「弘道庵」を好む。「名取河(なとりがわ香合」「源氏車香合」「糸組炭斗」などの好み物は名高い。

5代(八世):一啜斎宗守(いつとつさい)(1763~1838)

4代直斎の養子。名は宗守。号は一啜斎、休翁、円明(えんみょう)、渓澗(けいかん)。茶室「半宝庵」を創建。また茶通箱点前の新しい手順を考案した。

6代(九世)好々斎宗守(こうこうさい)(1795~1835)

5代一啜斎の養子。名は宗什のち宗守。号は好々斎、仁翁(じんおう)。裏千家九世不見斎の三男で、十世認得斎の弟。讃岐松平家に茶頭として使える。

7代(十世)以心斎宗守(いしんさい)(1830~91)

久田家七代皓々斎宗也の子。表千家十代吸江斎の弟。名は宗守、隠居後は宗安。号は全道(ぜんどう)、以心斎。病で失明したため、先代好々斎夫人宗栄が、木津宗詮(そうせん)の協力のもとに家元職を代行する。

8代(11世)一指斎宗守(いつしさい)(1848~98)

7代以心斎の甥、養子。表千家十代吸江斎の次男。名は宗守、号は一指斎、一叟(いつそう)、翠古(すいこ)、清々軒。嘉永6年(1853)の大火で類焼したが、明治14年(1881)に茶室、露地の一部を再興した。

9代(12世)愈好斎宗守(ゆうこうさい)(1889~1953)

8代一指斎の養子。久田家十代宗悦の次男。名は宗守、号は愈好斎、聴松(ちょうしょう)。大正15年(1926)、「官休庵」を改築。昭和15年(1940)の利休150回忌には「弘道庵」を再建。『茶道妙境』『茶道風与思記(ふとおもうき)』などの著書がある。

10代(13世)有隣斎宗守(うりんざい)(1913~99)

9代愈好斎の養子。名は宗守、隠居後は宗安。号は有隣斎、徳翁(とくおう)。昭和39年(1964)、千茶道文化学院創立。同49年、財団法人官休庵を設立。平成元年(1989)、家督を長男(不徹斎)に譲る。

11代(14世)不徹斎宗守(ふてつさい)(1945~)

10代有隣斎の長男。名は宗屋(そうおく)、のち宗守。号は不徹斎。平成元年に家元を継承する。

 


 

小堀家(遠州流)

1世:小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579~1647)-2世:小堀正之宗慶(1620~74)

-3世:正恒宗実(まさつねそうじつ 1649~94)

-4世:正房宗瑞(まさふさそうずい 1685~1713)

-5世:正峯宗香(まさみねそうこう 1690~1760)

-6世:政寿宗延(まさひさそうえん 1734~1804)

-7世:政方宗友(まさみちそうゆう 1742~1803)

-8世:正優宗中(まさやすそうちゅう 1786~1867)

-9世:正和宗本(まさかずそうほん 1813~64)

-10世:正快宗有(まさよしそうゆう 1858~1909)

-11世:正徳宗明(まさのりそうめい 1888~1962)

-12世:正明宗慶(まさあきそうけい 1923~)


 

藪内家
初代:剣仲紹智(けんちゅうじょうち 1536~1627)-2代:真翁紹智(しんおうじょうち 1577~1655)

-3代:剣翁紹智(けんおう 1603~74)

-4代:剣渓紹智(けんけい 1654~1712)

-5代:竹心紹智(ちくしん 1678~1745)

-6代:竹陰紹智(ちくいん 1727~1800)

-7代:竹翁紹智(ちくおう 1774~1846)

-8代:竹猗紹智(ちくい 1792~1869)

-9代:竹露紹智(ちくろ 1811~74)

-10代:竹翠紹智(ちくすい 1840~1917)

-11代:竹窓紹智(ちくそう 1864~1942)

-12代:竹風紹智(ちくふう 1904~79)

-13代:竹中紹智(ちくちゅう 1936~)

 


 

山田家(宗徧流)
1世:山田宗徧(1627~1708)-2世:宗引(そういん 1668~1724)

-3世:宗円(そうえん 1710~57)

-4世:宗也(そうや 1743~1804)

-5世:宗俊(そうしゅん 1790~1835)

-6世:宗学(そうがく 1810~1863)

-7世:宗寿(そうじゅ 1821~83)

-8世:宗有(そうゆう 1866~1957)

-9世:宗白(そうはく 1901~71)

-10世:宗徧(←宗囲)(1908~87)

-11世:宗徧(そうへん 1966~)

 


 

大日本茶道学会
初代:鳥尾小弥太(とりおこやた 1847~1905)-2代:鳥尾泰子(やすこ 1856~1930)

-3代:田中仙樵(せんしょう 1875~1960)

-4代:田中仙翁(せんおう 1928~)

 


 

利休道歌
・その道に入らんと思ふ心こそ 我身ながらの師匠なりけれ

・ならひつゝ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり

・こゝろざし深き人にはいくたびも あはれみ深く奥ぞをしふる

・はぢをすて人に物とひ習ふべし これぞ上手のもとゐなりける

・上手にはすきと器用と功積むと 此の三つそろふ人ぞよく知る

・点前にはよわみを捨てゝたゞ強く されど風俗いやしきを去れ

・点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ

・何にても道具扱ふたびごとに 取る手は軽く置く手重かれ

・何にても置付けかへる手離れは 恋しき人に別るゝと知れ

・点前こそ薄茶ににあれと聞くものを 粗相になせし人はあやまり

・濃茶には点前を捨てゝ一筋に 服の加減と息を散らすな

・濃茶には湯加減あつく服はなほ 泡なきやうにかたまりもなく

・とにかくに服の加減を覚ゆるは 濃茶たびたび点てゝよく知れ

・余所にては茶を汲みて後茶杓にて 茶碗のふちを心して打て

・中次は胴を横手にかけて取れ 茶杓は直に置くものぞかし

・棗には蓋半月に手をかけて 茶杓は丸く置くとこそ知れ

・薄茶入蒔絵彫もの文字あらば 順逆覚えあつかふと知れ

・肩衝は中次とまた同じこと 底に指をばかけぬとぞ知れ

・文琳や茄子丸壷大海は 底に指をばかけてこそ持て

・大海をあしらふ時は大指を 肩にかけるぞ習ひなりける

・口広き茶入れの茶をば汲むといふ 狭き口をばすくふとぞいふ

・筒茶碗深き底よりふき上り 重ねて内へ手をやらぬもの

・乾きたる茶巾使はゞ湯はすこし こぼし残してあしらふぞよき

・炭置くはたとへ習ひにそむくとも 湯のよくたぎる炭は炭なり

・客になり炭つぐならばそのたびに 薫物などはくべぬことなり

・炭つがば五徳はさなむ十文字 縁をきらすな釣合を見よ

・焚え残る白炭あらば捨て置きて また余の炭を置くものぞかし

・崩れたる其の白炭をとりあげて 又焚きそへることはなきなり

・炭おくも習ひばかりにかかはりて 湯のたぎらざる炭は消え炭

・風炉の炭見ることはなし見ぬとても 見ぬこそなほも見る心なれ

・客になり風炉のそのうち見る時に 灰崩れなん気づかひをせよ

・客になり底取るならばいつにても 囲炉裏の角を崩しつくすな

・墨蹟をかける時にはたくぼくを 末座の方へ大方はひけ

・絵の物をかける時にはたくぼくを 印ある方へ引きおくもよし

・絵掛けものひだり右むきむかふむき 使ふも床の勝手にぞよる

・掛物の釘打つならば大輪より 九分下げて打て釘も九分なり

・床に又和歌の類をばかけるなら 外に歌書をば荘らぬと知れ

・外題あるものを余所にて見る時は まづ外題をば見せて披けよ

・品じなの釜によりての名は多し 釜の総名鑵子とぞ言ふ

・冬の釜囲炉裏縁より六七分 高くすゑるぞ習ひなりける

・姥口は囲炉裏ぶちより六七分 低くすゑるぞ習ひなりける

・置合せ心をつけて見るぞかし 袋は織目たたみ目に置け

・はこびだて水指置くは横畳 二つ割にてまんなかに置け

・茶入また茶筅のかねをよくも知れ 跡に残せる道具目当に

・水指に手桶出さば手は横に 前の蓋とりさきに重ねよ

・釣瓶こそ手は竪におけ蓋取らば釜に近付方と知るべし

・余所などへ花をおくらばその花は 開きすぎしはやらぬものなり

・小板にて濃茶を点てば茶巾をば 小板のはしに置くものぞかし

・喚鐘は大と小とに中々に 大と五つの数を打つなり

・茶入より茶を掬ふには心得て 初中後すくへそれが秘事なり

・湯を汲むは柄杓に心つきの輪の そこねぬやうに覚悟して汲む

・柄杓にて湯を汲む時の習には 三つの心得あるものぞかし

・湯を汲みて茶碗に入るゝその時の 柄杓のねぢは肱よりぞする

・柄杓にて白湯と水とを汲む時は 汲むと思はじ持つと思はじ

・茶を振るは手先をふると思ふなよ 臂よりふれよそれが秘事なり

・羽箒は風炉に右羽よ炉の時は 左羽をば使ふとぞしる

・名物の茶碗出でたる茶の湯には 少し心得かはるとぞ知れ

・暁は数寄屋のうちも行灯に 夜会などには短檠を置け

・ともしびに陰と陽との二つあり 暁陰に宵は陽なり

・灯火に油をつがば多くつげ 客にあかざる心得と知れ

・いにしへは夜会などには床のうち 掛物花はなしとこそきけ

・炉のうちは炭斗ふくべ柄の火箸 陶器香合ねり香としれ

・風炉の時炭は菜籠にかね火箸 ぬり香合に白檀をたけ

・いにしへは名物などの香合へ 直にたきもの入れぬとぞきく

・蓋置に三つ足あらば一つ足 まへに使ふと心得ておけ

・二畳台三畳台の水指は まづ九つ目に置くが法なり

・茶巾をば長み布はば一尺に 横は五寸のかね尺と知れ

・帛紗をば竪は九寸よこ巾は 八寸八分曲尺にせよ

・うす板は床かまちより十七目 又は十八十九目に置け

・うす板は床の大小また花や 花生によりかはるしなしな

・花入の折釘打つは地敷居より 三尺三寸五分余もあり

・花入に大小あらば見合せよ かねをはずして打つがかねなり

・竹釘は皮目をうへに打つぞかし 皮目を下になすこともあり

・三つ釘は中の釘より両脇と 二つわりなるまんなかに打て

・三幅の軸をかけるは中をかけ 軸さきをかけ次は軸もと

・掛物をかけて置くには壁付を 三四分すかしおくことゝきく

・時ならず客の来らば点前をば 心は草にわざをつゝしめ

・花見よりかへりの人に茶の湯せば 花鳥の絵も花も置まじ

・釣舟はくさりの長さ床により 出船入船浮船と知れ

・壷などを床に飾らん心あらば 花より上にかざりおくべし

・風炉濃茶必ず釜に水さすと 一筋に思ふ人はあやまり

・右の手を扱ふ時はわが心 左の方にあると知るべし

・一点前点るうちには善悪と 有無の心わかちをも知る

・なまるとは手つゞき早く又おそく 所々のそろはぬをいふ

・点前には重きを軽く軽きをば重く扱ふ味ひを知れ

・盆石を飾りし時の掛物に 山水などはさしあひと知れ

・板床に葉茶壷茶入品々を かざらでかざる法もありけり

・床の上に籠花入をおく時は 薄板などはしかぬものなり

・掛物や花を拝見する時は 三尺ほどは座をよけて見よ

・稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一

・茶の湯をば心に染めて眼にかけず 耳をひそめてきく事もなし

・目にも見よ耳にもふれて香を嗅ぎて ことを問ひつゝよく合点せよ

・習ひをばちりあくたぞと思へかし 書物を反古腰張にせよ

・茶を点てば茶筅に心よくつけて 茶碗の底へつよくあたるな

・水と湯と茶巾茶筅に箸楊枝 柄杓と心あたらしきよし

・茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ

・釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具を持つは愚な

・数多くある道具を押しかくし 無きがまねする人も愚な

・茶の湯には梅寒菊に黄葉み落ち 青竹枯木あかつきの霜

・茶の湯とはたゞ湯をわかし茶をたてゝ 飲むばかりなる事と知るべし

・もとよりもなきいにしへの法なれど 今ぞ極る本来の法

・規矩作法守りつくして破るとも 離るゝとても本を忘るな

千家十職
楽焼 :樂吉左衛門

釜師 :大西清右衛門

塗師 :中村宗哲

指物師 :駒沢利斎

金物師 :中川浄益

袋物師 :土田友湖

表具師 :奥村吉兵衛

一閑張塗師 :飛来一閑

柄杓師 :黒田正玄

土風炉師 :永樂善五郎

 


 

楽家

長次郎(初代)
(?~1589)
 実際には、長次郎・田中宗慶(そうけい)・宗味(そうみ)ら数人の工人の手なる茶碗の総称である。豊臣秀吉から楽字の金印を拝領して、楽を称した。黒赤二種の釉薬を用いているが、焼成温度が低いために今ではすっかりカセて、一見して時代を感じさせる。形姿の基本は半筒形で、「無一物(赤)」や「大黒(黒)」のように、作為を表に現さず端然とした姿のものと、「俊寛(黒)」などのように、やや作為の目立つものとがある。ほかに特殊なものとして「道成寺」や「勾当」のように、口の開いた熊川(こもがい)を想わせる姿のものもある。ほとんどが総釉で、印のあるものは伝えられていない。高台には三~五個の目跡がある。
利休の選んだ七碗(利休七種ともいう)として、検校(けんぎょう)・早船(はやふね)・木守(きまもり)・臨済{以上赤}、大黒・東陽坊・鉢開(はちひらき){以上黒}があり、別に外七種として、雁取(がんとり)・閑居(かんきょ)・小黒(こぐろ){以上黒}、一文字・太郎坊・聖(ひじり)・横雲{以上赤}がある。ほかに、北野黒、ムキ黒、あやめ、面影、禿(かむろ)、ヒン僧{以上黒}や二郎坊、白鷺(しらさぎ){以上赤}などが著名。
常慶(二代)
(?~1635)
 楽家の「宗入文書」によると、田中宗慶(そうけい)という人物がいて、常慶はその子の庄左衛門宗味の弟であり、秀吉から印と暖簾を拝領したとする。白釉(香炉釉という)を創始し、茶碗に用いている。作品は必ずゆがんでおり、定型的な姿をしていない。「樂」の字の「白」の部分が「自」になっている。(自樂印)
道入(三代)
(1599~1656)
 常慶の長男。剃髪してノンコウと号す。ノンコウの名は宗旦から贈られた竹花入の銘によるといわれる。歴代中、最も優れた名工で、作品は大ぶり、のびやかな器形で力強く、総じて薄作り。口縁は薄く削り込まれた蛤端(はまぐりば)で、うねりをつけ、五岳(ごがく)といわれるものの基本をつくる。焼成温度が高くなったために、黒・赤釉ともによく溶けて光沢がある。窯変、黄土がけ、飴釉(あめぐすり)の使用、かけ外しなど釉技も変化に富んでいる。高台土見せのものもある。ノンコウ七種として、獅子・升・千鳥・稲妻{以上黒}、鳳林(ほうりん)・若山・鵺(ぬえ){以上赤}があり、ほかに此花(このはな)、青山、虹が著名。
一入(四代)
(1640~1696)
 道入の長男。茶碗は一体に小ぶりで、高台も小さく引き締まり、腰以下にまるみのある姿が特色。朱釉といわれる黒釉のなかに赤い発色のある釉を得意としている。総釉が多く、したがって無印が多い。
宗入(五代)
(1664~1716)
 一入の養子。尾形光琳・乾山の徒弟。元禄元年(1688)に樂家の系図をまとめた「宗入文書」を書いた。厚作りで、黒釉はカセ釉、光沢のないざらざらした感じが特色。五十歳の半白の祝いに焼いた茶碗二百個は数の茶碗の嚆矢である。この茶碗には原叟(げんそう)による「癸巳(きし)」の箱書付がある。
左入(六代)
(1683~1739)
 宗入の養子。黒楽には宗入のカセ釉風のものがあり、赤樂では白い釉の混じったものや貫入のある釉など。長次郎、道入、光悦などの写しものにも優れる。表千家七代如心斎銘の左入二百の茶碗が有名。
長入(七代)
(1714~1770)
 左入の長男。厚作りで胴に箆使いがある、黒樂は光沢がある。赤樂は深みのある色合いでこまかく貫入が入る。表千家七代如心斎好み「玉の絵茶碗」が著名。細工物にも長じていた。三島、交趾(こうち)、織部などの写し物もつくっている。正月に使われる大小二つの茶碗を重ねる「島台茶碗」は長入から始まる。
得入(八代)
(1745~1774)
 長入の長男。三十歳で歿したため、作品数は少ない。大部分が赤茶碗で、作風は穏やか。高台の中には兜巾(ときん)渦巻がある。黒樂の「玉の絵茶碗」に金入りのものがあり、「得玉」といって喜ばれる。
了入(九代)
(1756~1834)
 得入の弟。作風は前中後期に分かれる。前記=十五歳から天明の大火(三十三歳)まで。作品は少ない。中期=五十六歳まで。最も充実した時期。後期=歿年まで、石山に隠居。文政二年(1819)には紀州家御庭焼にも参加している。
楽家中興の名人といわれ、薄作り、箆使いに巧みな作品を残している。黒釉はつやがあり、赤釉も鮮明で、釉のかけ分け、二つ以上の印を捺した数印の茶碗も試みている。寛政元年(1789)、長次郎二百回忌のときにつくった赤茶碗二百個に使用した草樂印を「寛政判」または「茶の子判」という。
旦入(十代)
(1795~1854)
 了入の次男。紀州御庭焼偕楽園窯にも従事する。作品は全般に小ぶりで、釉がけは薄く、赤茶碗には濃淡が生じる。口造りは伸びやかな「五岳」をなす。浅い茶溜りがある。
慶入(十一代)
(1817~1902)
 旦入の養子。作風は道入を慕い、新しい趣向をこらした近世の名工。瀟洒な作風に特色がある。西本願寺の大谷光尊上人から受けた「雲亭」印や、表千家碌々斎筆の「天下一」印も用いる。
弘入(十二代)
(1857~1932)
 慶入の長男。箆目も強く、二重の幕釉を得意としている。赤楽には、青い窯変を出したものが多い。明治二十三年(1890)の長次郎三百回忌に作った赤茶碗三百個には、碌々斎筆の草樂印を使う。
惺入(十三代)
(1888~1944)
 弘入の長男。硬さの残る謹厳な作風。織部、志野、備前、唐津、萩などを取り入れている。
覚入(十四代)
(1918~1980)
 惺入の長男。造形的な力強さをもった作品が多い。昭和五十三年に、樂家伝来の作品や資料をおさめた樂美術館を設立。昭和二十九年より、高松宮妃殿下の書かれた大小二つの樂字印を使う。
吉左衛門(十五代)
(1949~)
 覚入の長男。樂家当代。1981年11月襲名。十四代覚入が隠居後の印として用意していた。大燈国師筆の樂字印を用いる。