茶の湯人物・名数

あしかがよしまさ
足利義政
1436~90
室町幕府八代将軍。政治力はなかったが、庭園、立花、茶の湯、聞香、能楽、連歌などには造詣が深く、のちに京都の東山山麓に銀閣を中心とする東山山荘を営んだ。この時代をのちに東山文化と呼んでいる。また、義政の遺愛の器物類は東山御物として知られている。
あらきむらしげ
荒木村重
1535~86
安土桃山時代の武将で、摂津有岡(伊丹)城主。茶の湯に造詣が深く、「兵庫壷」「荒木高麗」「遠浦帰帆図」などの名物を所持していた。織田信長に抗して敗れ、晩年は剃髪してたが、豊臣秀吉に召し出されて、茶の湯をもって仕えた。利休七哲の一人に数えられることもある。
あわたぐちぜんぽう
粟田口善法
生没年不詳
村田珠光の門人で、室町時代中期の侘び茶人。京都東山の粟田口に草庵を結んで、手取釜ただ一つで食事もすれば茶も点てていたといわれている。珠光からは「胸中ノ奇麗ナル者」と高い評価を受けていた。
いいそうかん
井伊宗観
1815~60
本名直弼。彦根藩主で、江戸幕府の大老。茶の湯を最初は家臣の真野善次に、のちには石州流の片桐宗猿から本格的に学んだ。著書として知られる「茶湯一会集」では、正午の茶事における主客の心得をさまざまに説いたが、特に「一期一会」と「独座観念」の思索を深めている。江戸城桜田門外で不慮の死を遂げた。
いえはらじせん
家原自仙
生没年不詳
江戸時代前期から中期にかけての京都の茶人。裏千家四世仙叟宗室の茶会記にその名が見える。千利休作の「園城寺」花入をはじめ、名物道具の所持者としても知られていた。
いぎさんえんさい
伊木三猿斎
1818~86
本名忠澄。備前岡山藩の家老で、明治維新後は岡山県大参事を務めた。茶の湯は最初は速見流を学んだが、のちに裏千家十一世玄々斎に入門し、親密な交流をつづけた。玄々斎から贈られた利休像は、三猿斎の没後に大徳寺に寄進され、現在も金毛閣に安置されている。
いさこうたく
伊佐幸琢
1684~1745
江戸時代中期の茶人で。石州流伊佐派の祖。片桐石州の高弟恰渓宗悦(イケイソウエツ)に学んだのち、徳川幕府に招かれて御数奇屋頭として仕えた。
いのうえせがい
井上世外
1835~1915
本名馨。明治の元老で、近代数寄者の代表の一人。外務大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任した。本格的に茶の湯を始めたのは五十歳のころからで、奈良東大寺にあった「八窓庵」を自邸に移築し、明治天皇の行幸を得て茶席披きをしている。茶道具の収集にも熱心で、徽宗の「桃鳩図」、「松島茶壷」、長次郎の「雁取」などの名品を所持した。
いまいそうきゅう
今井宗久
1520~93
安土桃山時代の堺の有力納屋衆で、茶人。武野紹鴎に茶の湯を学び、その女婿となった。津田宗久、千利休とともに茶頭として織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、秀吉から疎んじられ、北野大茶湯では末席に置かれたという。「松島茶壷」、「紹鴎茄子」、定家色紙などの紹鴎名物を所持した。
うえだそうこ
上田宗箇
1563~1650
丹羽長秀、豊臣秀吉に仕えた武将。上田宗箇流の祖。関が原合戦後に剃髪し、阿波(徳島県)蜂須賀家の茶道指南になった。還俗して紀州(和歌山県)浅野家に仕え、その芸州(広島県)移封に従い、以後は広島を根拠地としている。茶の湯は古田織部に学び、小堀遠州から台子の伝授を受けた。
おかくらてんしん
岡倉天心
1862~1913
本名覚三。近代の美術史学者。東京美術学校(現東京芸術大学)や日本美術院を創設し、米国ボストン美術館東洋部長を務めるなど、日本美術の普及振興に尽くした。明治39年(1906)にニューヨークで英文「茶の本」うぃ出版し、海外に茶の湯とともに日本の文化や精神を紹介して高く評価された。
おだうらく
織田有楽
1547~1621
本名長益。桃山時代から江戸初期にかけての武将茶人。織田信長の弟で、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えるが、関が原の役では徳川家康についた。大阪冬の陣では再び豊臣方についたが、夏の陣の直前に隠棲した。書院台子の茶に利休の侘び茶をとり入れた有楽独自の茶風を築いた。茶室如庵には有楽の独創性が見られる。
おださだおき
織田貞置
1617~1704
織田信長の孫で、織田有楽の甥信貞の子にあたる。父の没後に織田家を継ぎ、徳川幕府には高家(幕府の儀式や典礼を司る役職)として仕えた。有楽の茶法を受け継ぎ、貞置流を興すほど茶の湯に堪能だった。
おだのぶなが
織田信長
1534~81
戦国時代の武将。天下統一をめざして上洛(1568年)した前後から名物狩りに乗り出し、多数の名物道具を入手している。また、今井宗久、津田宗久、千利休を茶頭にとり立てて、「茶の湯政道」を行った。
かたぎりせきしゅう
片桐石州
1605~73
本名貞昌。大和小泉(奈良県大和郡山市)の領主で、石見守。石州流茶道の祖。千道安門下の桑山宗仙に師事し、小堀遠州の跡を受けて。徳川四代将軍家綱の茶道師範となった。石州の茶は、織部、遠州の大名茶の系譜を受け継ぎながら、利休の侘び茶も尊重している。家綱に献じた「石州三百ケ条」では、将軍家の茶道の規範を定めている一方で、石州自身は茶室は一畳台目、紙表具の黒蹟、茶碗は白高麗か赤楽の割れを継いだもの、懐石は一汁二菜など、侘びに徹した茶を目ざしていることは注目に値する。門下からは藤林宗源、恰渓宗悦らを輩出した。
かなもりそうわ
金森宗和
1584~1656
本名重近。江戸時代前期の宮廷茶の湯を支えた茶人で、宗和流の祖。飛騨高山城主金森可重の長男だが、三十歳のときに勘当され、後半生は茶人として生きた。姫宗和といわれ、古田織部の茶を基本に、小堀遠州の茶を加えた、優美で繊細な独自の茶風を築いた。また、京焼の名工野々村仁清を育てた。
かみやそうたん
神谷宗湛
1551~1635
対明貿易で巨富を築いた博多の豪商茶人。本能寺の変では現場に居合わせて、「遠浦帰帆図」一軸を猛火から持ち出したことで知られている。織田信長の没後は豊臣秀吉の側近として仕える。「宗湛日記」を遺した。
がもううじさと
蒲生氏郷
1556~95
織田信長・豊臣秀吉に仕えた有力武将で、会津若松九十二万石の大大名。茶の湯は千利休に学び、利休七哲の筆頭にあげられている。利休の切腹後は千少庵を庇護して千家の再興のために尽力した。
かわかみふはく
川上不白
1719~1807
16歳で表千家7世如心斎天然の門に入り、以来16年間、師のもとで茶道の研鑽に努めた。如心斎の高弟として、時代に対応する新しい茶、いわゆる七事式の制定に参画し、師の信頼を一身にあつめた。また、利休居士真筆の辞世の一軸を江戸・冬木屋から千家に帰還させた功績はつとに知られるところでもある。のち、江戸で独立した不白は、千家のわび茶とともに七事式の茶をもって、大江戸文化を担う武家・町人などに広く浸透させ、江戸千家の基を確立した。
きたむきどうちん
北向道陳
1504~62
室町時代末期の茶人。職業は医師だったらしい。千利休の師として台子の茶法を伝授したのち、武野紹鴎に紹介したと伝える。本名は荒木といったが、北向きの家に住んでいたことから北向と称したという。
くすみそあん
久須見疎安
1636~1728
江戸時代前期の茶人。宗旦の最晩年の弟子として四天王の一人に数えられることもあるが、むしろ、藤村庸軒から多くを学んだと思われる。庸軒の娘婿で、「茶話指月集」の編者として知られる。久須美とも書く。
くぼとしよ
久保利世
1571~1640
奈良春日大社の禰宜で侘び茶人。通称権太夫。長闇堂と称した。茶の湯は利休の弟子の本住坊から学んだといわれ、目利と工夫を重視した。東大寺を再建した俊乗房重源の影堂の遺構を屋敷内に茶室としたのを、小堀遠州が長闇堂と命名した。「長闇堂記」を著した。
くろだじょすい
黒田如水
1546~1604
本名孝高。安土桃山時代の武将。茶の湯は利休の直伝で、「黒田如水茶湯定書」を著した。虚堂の墨蹟を愛蔵し、筑前博多の島飼松原に二畳敷茶室を設けて茶事を楽しんだ。
くわやまそうせん
桑山宗仙
1560~1632
豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武人。茶の湯を千道安に学び、片桐石州や藤林宗源に伝授している。
こうのいけどうおく
鴻池道億
1655~1736
本名田中善三郎。江戸時代前期から中期にかけて、茶道具の目利として知られた大坂町人。豪商鴻池家の一族で、酒造業を営んでいた。
ごとうけいた
五島慶太
1882~1959
関東の鉄道王と呼ばれた実業家。農商務省のエリート官僚から実業界に転身して鉄道事業に辣腕をふるい、東急王国を築いた。墨蹟を中心に収集した名品の茶道具は五島美術館に収められている。
このえよらくいん
近衛予楽院
1667~1736
本名家熙。五摂家筆頭の近衛家21代の当主。茶の湯は後陽成天皇の皇子の常修院宮に師事した。侘びを求めるよりも。公家にふさわしく、高邁な茶を志向した。
こばやしいつおう
小林逸翁
1873~1957
本名一三.阪急電鉄を創設し、関西の私鉄王といわれた。数寄者としても茶道改革を主張し、家元の選挙制を提案した。収集した茶道具をはじめとする約五千点の美術工芸品は、逸翁美術館に収められている。
さかいそうが
酒井宗雅
1755~90
本名忠以(ただざね)。江戸時代中期の大名茶人で、播磨姫路藩主。松江藩主松平不昧と交流して茶の湯を学んだ。名器の収集家でもあり、光悦茶碗「鉄壁」、清拙正澄墨蹟などの所持で知られた。「酒井蔵帳」や茶会記「逾好日記」を遺している。画家酒井抱一の実兄。
さくまふかんさい
佐久間不干齋
1556~1631
本名正勝。織田信長に仕えた戦国の武将。茶の湯を千利休に学んだ。石山本願寺攻めの最中にも茶の湯にふけっていたために、高野山に追放された。のちに剃髪して、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠の御伽衆になった。
しばやまけんもつ
芝山監物
生没年不詳
織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将。利休七哲の一人。所持した珠光表具の墨蹟が長すぎるために、床の天井を上げて掛けた逸話は有名。長次郎の「雁取」茶碗や芝山型手水鉢の所持者としても知られている。
しまいそうしつ
島井宗叱
1539~1615
博多で酒造と金融業を営んだ豪商茶人。茶の湯は津田宗及の弟の天王寺屋道叱に学び、叱の一字を与えられた。宗室とも書く。
じゅうしやそうご
十四屋宗伍
生没年不詳
村田珠光の門人で、京都下京に住んだ茶人。「山上宗二記」では、茶の湯好きだが目は利かず、道具持ちだがよいものはないと酷評されているが、「宗悟茄子」や牧谿筆「柘榴絵」などを所持していた。
しょうかどうしょうじょう
松花堂昭乗
1584~1639
江戸時代初期の文化人で茶人。石清水八幡宮滝本坊に住んだ。和歌、書、絵画に才能があり、寛永の三筆の一人に数えられている。茶の湯は小堀遠州に学び、茶室「松花堂」には遠州をはじめ、久保利世、江月宗玩、近衛応山などの多くの人々を招いた。また、「国司茄子」「奈良文琳」、碁盤蒔絵香合など、「八幡名物」と呼ばれた名物を数多く所持していた。
すぎきふさい
杉木普齋
1628~1706
江戸時代前期の茶人。伊勢神宮への参詣者を案内したり、各地に神符や暦を配布する御師を業とした。15歳で千宗旦に入門して茶の湯修行をし、宗旦の没後は一翁宗守、江岑宗左、仙叟宗室とも交流して奥義を極めて、宗旦四天王の一人に数えられるようになった。普齋の茶の湯伝授法は、茶事の方法や棚物の扱いなどを詳述した伝書を与えるところに特色がある。
せんのそうおん
千宗恩
?~1600
千利休の後妻で、少庵の実母。棗に着せる大津袋は、宗恩が近江の大津から京へ送る米袋にヒントを得て仕立てたといわれている。利休に内助の功を尽くした女性。
せんのどうあん
千道安心
1546~1607
利休の実子(長男)で初めは紹安と称し、利休とともに豊臣秀吉に茶頭として仕えていた。桑山宗仙や片桐石州が道安の流れをくんでいる。
たかはしそうあん
高橋箒庵
1861~1937
本名義雄。近代の実業家です数奇者、茶道美術評論家。「時事新報」の記者から三井銀行を経て、三越百貨店の経営に手腕を発揮したが、五十歳で実業界を引退して茶道会に入った。「大正名器鑑」全十三巻を編纂した。
たかやそうはん
高谷宗範
1851~1933
本名恒太郎。大蔵省、司法省の役人や東京控訴院検事を経て弁護士を開業した。遠州流を学び、茶道をもって皇室中心の国家体制を護持するという思想を掲げ、宇治に茶道の道場を開いた。
たかやまうこん
高山右近
1553~1615
荒木村重、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将で、キリシタン大名としても有名。利休七哲の一人で、その茶風には「清の病」があるといわれ、露地はもちろん、茶室の縁の下まで掃き清めなければ気がすまないような潔癖なところがあった。徳川家康によるキリシタン追放令でマニラに送られ、その地で生涯を終えた。
たけのじょうおう
武野紹鴎
1502~1555
村田珠光、鳥居引拙の跡を継いで、茶の湯名人と称された。堺出身で、若いころには連歌師を志さして京都に上り、公家歌人の三条西実隆に師事した。このとき、藤原定家の歌論書「詠歌大概」を伝授されて数奇の心を悟り、茶の湯を村田宗珠や十四屋宗伍に学んで、侘び茶を発展させた。紹鴎の茶の特徴は、作意と目利にすぐれていたことにある。四畳半茶室に土壁を取りいれ、窓の木格子も竹格子に改め、床の間の塗縁も薄塗りか白木にし、日常雑器の茶道具化とともに、竹の茶杓や蓋置、土風炉を茶席に大胆に取り込んで、珠光の侘び茶をよりいっそう発展させた。紹鴎が登場したことによって、茶の湯の主流が書院台子の茶から侘び茶に交代し、さらに弟子の利休の手で本格的な侘び茶として大成された。
たちばなじつざん
立花実山
1655~1708
江戸時代前期の筑前(福岡県)黒田藩士。「南方録」の発見者とも、編纂者ともいわれている。茶の湯は、高山右近の女婿で黒田藩の茶頭土谷宗俊に学んだといわれている。藩主黒田綱政の怒りにふれて斬殺された。
だてつなむら
伊達綱村
1659~1719
伊達正宗の孫で、仙台藩主。わずか二歳で藩主になり、藩内の政争(伊達騒動)に巻き込まれたが、切り抜けた後は強固な体制を築いた。茶の湯好きで、元禄六年(1692)から宝永二年(1705)にかけて千三百会もの茶会を催し、「伊達綱村茶会記」を残している。
つだそうきゅう
津田宗及
?~1591
堺の豪商天王寺屋津田宗達の惣領で、今井宗久、千利休とともに三宗匠と呼ばれ、織田信長、豊臣秀吉の茶頭として活躍した。「天王寺屋会記」には、永禄八年(1565)から天正十五年(1587)までの他会記四巻と自会記五巻、道具拝見記一巻が収められている。
つだそうたつ
津田宗達
1504~1566
堺の豪商天王寺屋の当主で、精力的に本業に取り組むかたわら、茶人として三十種類の名物も所持していたという。四十四歳の天文十七年(1548)から死の年まで書きつづけられた茶会記は四百五十数会に及んだ。その後は宗及、宗凡と三代にわたって書き継がれ、「天王寺屋会記」となっている。
とくがわひでただ
徳川秀忠
1579~1632
徳川家康の第三子で、徳川二代将軍。台子茶の湯を古田織部から学び、武家に茶の湯を普及させる基礎を築いた。
とよとみひでなが
豊臣秀長
1540~1591
豊臣秀吉の異父弟。大和郡山城主で、大和大納言と称した。千利休と親しく交わっており、その早い病没がなければ、利休の自刃もなかったといわれている。
とよとみひでよし
豊臣秀吉
1536~1598
桃山時代に天下統一を果たした武将。織田信長の跡を受けて茶の湯を政治にとり入れて、千利休、今井宗久、津田宗及、山上宗二、重宗甫(しげそうほ)、万代屋宗安(もずやそうあん)を茶頭に起用し、北野大茶湯をはじめ数多くの茶会を催している。
とりいいんせつ
鳥居引拙
村田珠光の死後に茶の湯名人といわれた室町時代後期の茶人。奈良の人とも、堺の商人ともいわれている。目利で茶法にもすぐれ、名物を三十種ほど所持していたと思われる。
ねづせいざん
根津青山
1860~1940
本名嘉一郎。東武鉄道をはじめ、関東で多くの鉄道を経営した実業家。骨董趣味から茶の湯にも関心を深め、大正7年(1918)から昭和14年(1939)まで毎年歳暮に催した茶会は、東京の名物になった。収集した約7400点の美術品は根津美術館に収められている。
のうあみ
能阿弥
1397~1471
足利義教・義政に仕えた同朋衆。足利将軍家が収集した唐物、唐絵の管理をする一方、座敷飾りに能力を発揮した。
のむらとくあん
野村得庵
1878~1945
本名徳七。証券で財を成した野村財閥の創設者。薮内家十代の休々斎から茶の湯を学んだ。32年間に502会の茶会を催し、招かれた茶会は2077会に及んでいる。収集した茶道具は野村美術館に収められている。
はたけやまそくおう
畠山即翁
1881~1971
本名一清。水力機械の大手メーカー、荏原製作所の創業者、近代数寄者の最後の世代の一人。収集した名品茶道具は畠山記念館に収蔵されている。また、茶事好きで自筆の絵入り茶会記を数多くのこしている。
はちやじょうさ
鉢屋紹佐
1519~1571
通称又五郎。室町時代末期から桃山時代の奈良の富豪。東山御物の「四十石茶壷」を所持し、津田宗達、今井宗久、千利休ら堺衆とも交遊があった。蜂屋とも書く。
はやみそうたつ
速水宗達
1727~1809
茶道速水流の開祖。裏千家八世又玄斎一燈に奥義を受けて、一派を成した。岡山の池田候の茶頭役を務め、「喫茶指掌編」を表している。
はらさんけい
原三渓
1868~1939
本名冨太郎。横浜財界の巨頭で近代数寄者。横浜の豪商原家の婿養子となって、生糸と絹織物の貿易に成功した。古美術を収集する一方、古建造物も収集し、三渓園内に移築保存している。
ひきたそうかん
疋田宗観
安土桃山時代に大文字屋と称した京都の豪商「初花肩衝」や高麗茶碗の名品といわれた「疋田筒」を所持していたが、「初花肩衝」を織田信長に召し上げられた。
ひさだそうぜん
久田宗全
1647~1707
江戸時代中期の京都の茶人。表千家の茶家久田家の三代目。母のくれは千宗旦の娘、伯父に藤村庸軒がいる。花入の宗全籠を創案したという。
ひらせろこう
平瀬露香
1839~1908
本名亀之助。大阪の両替商千草屋の当主。明治維新後は大阪財界の名誉職を歴任しながら、風流生活に一生を過ごした。武者小路千家の茶の湯を学び、官休庵の重鎮として衰退期の茶道会を支えた。
ふじたこうせつ
藤田香雪
1841~1912
本名伝三郎。大阪の財閥藤田組を築いた。美術工芸品の収集に趣味を持ち、茶の湯にも親しんだ。斗々屋の名碗「唐織」、「田村文琳」、ノンコウ茶碗「千鳥」、紅葉呉器などを所持し、収集品は藤田美術館に収められている。
ふじたそうり
藤田宗理
(生没年不詳)
京都の茶人で、武野紹鴎の最初の師という説もある。村田珠光の門人で、目利としても有名。名器といわれた細口の花入「鶴の一声」を所持していた。
ふじむらようけん
藤村傭軒
1613~99
江戸時代前期の茶人で、宗旦四天王の一人。近江の久田家に生れ、京都の呉服商藤村家の養子になったといわれている。茶の湯は薮内家二代真翁紹智に学んだのをはじめ、小堀遠州や金森宗和tも交流している。宗旦に入門したのは、34、5歳のころで、宗旦の没後は千家の後見役として力を尽くした。
ふじわらぎょううん
藤原暁雲
1869~1960
本名銀次郎。王子製紙の経営にあたり、製紙王と呼ばれた財界人。表千家茶道を学び、名物道具の収集家で知られた。
ふゆききへいじ
冬木喜平次
(生没年不詳)
江戸深川で材木問屋を営んだ富商。数多くの名物道具を所蔵し、松平不昧とも親交があった。
ふるいちはりま
古市播磨
1459~1508
大和(奈良県)の古市の土豪で、興福寺の保護者だったといわれている。村田珠光の一番弟子で、茶の湯名人だっただけではなく、連歌、謡曲、尺八、曲舞など、諸芸の名手だったという。珠光から与えられた『古市播磨法師宛珠光一紙』はよく知られている。
ふるたおりべ
古田織部
1544~1615
本名重然(しげなり)。豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将で、徳川秀忠の茶の湯指南を務めた。利休七哲の一人に数えられ、織部流の祖。利休の茶の湯を引き継ぎながら、師の没後は茶風を異にした。織部の茶風は、総体的に華やかな作意(創意)にあふれていた。その端的なあらわれが「ユガミ茶碗」「ヒズミ茶碗」と呼ばれる変形の沓形茶碗であり、餓鬼腹茶入や織部形伊賀水指の異形の意匠に見ることができる。また織部好みの茶室は開放的な多窓形式で、意匠を凝らしたものである。大阪夏の陣に際して豊臣方に内通した嫌疑を受けて自刃した。
へちかん
丿貫
(生没年不詳)
安土桃山時代の茶人。京都の山科に住み、手取釜一つで茶を楽しんだという。利休を招いて茶事を催したともいい、侘び茶人の代表のように伝えられている。
ほそかわさんさい
細川三斎
1563~1645
本名忠興。織田信長と豊臣秀吉に仕えた武将。教養人として名高い幽斎(藤孝)の長男で、歌道をはじめ有職故実全般に通じていた。利休七哲の一人に数えられ、最も忠実に利休の茶を受け継いだと評価されている。夫人は明智光秀の娘、お玉(ガラシヤ)。
ほりのうちせんかく
堀内仙鶴
1675~1748
表千家の脇宗匠堀内家の初代。最初は江戸の俳諧師だったが、表千家六代覚々斎の門人となり、京都の堀内家の養子に入って茶人になった。
ほんあみこうえつ
本阿弥光悦
1558~1637
江戸時代前期に活躍した多芸多才の芸術家。刀剣の鑑定や研ぎを家業とするかたわら、書、画、陶芸、蒔絵、作庭などに独自の美意識で独創性に富んだ作品を制作した。楽茶碗にもすぐれた作品を残しているが、作風は樂家のものとは違った力強い芸術的な趣がある。徳川家康から洛北の鷹ケ峰に領地を与えられ、一族や工匠とともに移り住み、風雅な余生を送った。
まえだとしなが
前田利長
1562~1614
安土桃山時代の武将。前田利家の子。千利休と古田織部に茶の湯を学び、利休七哲の一人に加えられることもある。
まきむらひょうぶ
牧村兵部
1545~93
織田信長と豊臣秀吉に仕えた戦国武将。キリシタン大名。『江岑夏書』には利休七哲の6番目にランクされている。天正8年(1580)正月、安土城の茶会でユガミ茶碗を用いて注目された。
まごしけしょう
馬越化生
1844~1933
本名恭平。日本麦酒会社を設立してビール王と呼ばれた実業家。益田鈍翁の手引きで茶の湯に関心を持ったが、特に道具の収集に熱心な数寄者として知られた。
ますだどんおう
益田鈍翁
1848~1938
本名孝。三井物産を創立して三井財閥を築いた実業界の重鎮で、近代数奇者の代表者。明治時代初期に価値の暴落した美術工芸品を、文化財保護の立場で収集するうちに、茶道具の名品を手に入れて茶の湯にのめり込んだ。以来、毎年一回主宰した「大師会」には、メンバーの財界人が茶席に名品茶道具を飾り立てて大評判をとり、茶の湯を隆盛に導いた。この形式を取り入れた茶会が、現在の大寄せ茶会となって定着している。
まつおそうに
松尾宗二
1579~1658
千宗旦の高弟で、四天王の一人とする説もある。松尾流の祖。武野紹鴎の弟子の辻玄哉の三代目で、宗二の時代に母方の松尾姓に改めたという。
まつだいらさだのぶ
松平定信
1758~1829
奥州白河(福島県)藩主で数寄大名。幕府から筆頭老中に迎えられて寛政の改革にあたった。茶の湯は遠州流を学び、華美になることを戒め、倫理性を強調して質素な茶に徹した。その茶風は、著書の「茶道訓」や「茶事掟」に示されている。
まつだいらふまい
松平不昧
1751~1818
本名治郷(はるさと)。江戸時代後期の出雲松江藩主で茶人。茶の湯は石州流の伊佐幸琢から真の台子の伝授を受けたのち、三斎流、遠州流も修めたという。それまで漠然と名物と呼ばれていた名品の茶器を、宝物・大名物・中興名物・名物並、上の五段階のランクをつけて、十八冊の「古今名物類聚」にまとめたことが功績として大きい。
まつながじあん
松永耳庵
1875~1971
本名安左衛門。電力王といわれ、実業界、政界でも功績を残した数寄者。耳順(六十歳)から茶の湯を始めたことから、耳庵と称した。収集した茶道具の多くは福岡市美術館に収められている。
まつながひさひで
松永久秀
1510~77
戦国時代の武将。茶の湯は武野紹鴎に学び、名物道具を所持していた。織田信長の上洛に際しては「付藻茄子(つくもなす)を献上して降った。その後、再び信長と敵対し、居城の信貴山落城のときに、信長が所望していた平蜘蛛釜を叩き割ったあと、火薬で爆死したという。
まつやひさまさ
松屋久政
?~1598
奈良の塗師で、茶人。武野紹鴎や千利休など堺の茶人と交流して、その茶会の諸相を「松屋会記」として書き留める。天文二年(1533)に始まり、以後は、子の久好、孫の久重まで百三十年間にわたって受け継がれた。
まつらしげのぶ
松浦鎮信
1622~1703
肥前(長崎県)平戸藩主。藩政でも功績を上げたが、茶の湯にも熱心で、金森宗和、片桐石州、藤林宗源らに学び、石州流鎮信派の開祖となった。
みやけぼうよう
三宅亡羊
1580~1649
堺の会合衆出身の儒者で、茶の湯を千宗旦に学び、四天王の1人とされることもある。
むらたじゅこう
村田珠光
1423~1502
室町時代中期の茶人。少年時代に奈良の称名寺の僧になり、闘茶に熱中して寺を追放されたと伝える。のちに京都へ出て、書院台子の茶を本格的に学ぶとともに、一休宗純に参禅し、印可証として圜悟(えんご)禅師の墨蹟を譲られ、「茶禅一味」の境地を開いたとされている。茶の湯の開山といわれる。
もうりてるもと
毛利輝元
1552~1625
織田信長と豊臣秀吉に対抗した中国地方最大の大名毛利家の当主。元就の孫。茶の湯にも造詣が深く、利休の茶会にもたびたび招かれている。文禄・慶長の役で連れて来られた陶工李勺光・李敬兄弟に萩焼を始めさせた。
もずやそうあん
万代屋宗安
?~1594
安土桃山時代の堺の茶人。千利休の娘婿で、豊臣秀吉の茶頭の1人。万代屋釜は、利休が宗安に贈るために辻与次郎に造らせた釜だといわれている。
やすだしょうおう
安田松翁
1538~1921
本名善次郎。日本の銀行王といわれ、安田財閥を築いた。明治13年(1880)から大正10年(1921)までの茶会記(自会記218会・他会記365会)を遺している。
やまのうえそうじ
山上宗二
1544~90
安土桃山時代の堺の茶人。千利休の一番弟子で、織田信長と豊臣秀吉に仕えたが、毒舌がたたって流浪した。小田原北条氏政攻めの際に秀吉の勘気にふれて耳と鼻をそがれ、斬殺されたという。著書「山上宗二記」は、利休の茶の湯についての秘伝書で、資料として重要視されている。
りくう
陸羽
?~804
中国唐代の文人。「茶経」の著者。隠遁の生活を送った人というほかには、よくわからない。





茶の湯名数

一の巻

一樂二萩三唐津
(いちらくにはぎさんからつ)

茶人が和物茶碗の好みを順位づけた言葉。形、手ざわり、口当たり、重量感、釉景、肌合いなどの条件が満たされているものを順位づけたもの。高麗茶碗を入れた呼び名に、「一井戸二楽三唐津」がある。 


三の巻

三阿弥
(さんあみ)

足利将軍家に同朋衆として仕えた能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三人をいう。


井戸
(さんいど)

 喜左衛門井戸、加賀井戸、細川井戸の大名物の高麗茶碗三碗をいう。また青井戸の、古今井戸、藤屋井戸、四もとの三碗をいうこともある。


三肩衝
(さんかたつき)

 松屋(松本)、投頭巾、楢柴(博多)の大名物の漢作唐物肩衝茶入をいう。


三器
(さんき)

 茶入、茶杓、袋(仕覆)をいう。濃茶の点前の終わりに三器の拝見が正客から所望される。


三色紙
(さんしきし)

 伝紀貫之筆の「寸松庵(すんしょうあん)色紙」。伝小野道風筆の「継(つぎ)色紙」、伝藤原行成筆の「升(ます)色紙」をいう。


三千家
(さんせんけ)

 千利休直系の表千家、裏千家、武者小路千家の三家をいう。


三宗匠
(さんそうしょう)

 三人の茶の湯の宗匠をいうが、組み合わせにはおおよそ次の四通りがある。①今井宗久、津田宗及、千利休 ②今井宗久、今井宗薫、千利休 ③千利休、古田織部、小堀遠州 ④古田織部、佐久間真勝(さねかつ)、小堀遠州


三大会記
(さんだいかいき)

 「松屋会記」、「天王寺屋会記」、「宗湛(そうたん)日記」の三つの茶会記をいう。「今井宗久茶湯日記書抜」を加えて四大会記ともいう。


三大手鑑
(さんだいてかがみ)

 「もしほ草」(京都国立博物館)、「見ぬ世の友」(出光美術館)、「翰墨城(かんぼくじょう)」(MOA美術館)の三つの手鑑をさす。手鑑とは、代表的な古筆切をはり込んだ帖で、鑑定の基準とした。


三炭
(さんたん)

 茶事で客を迎えるときにととのえる、初炭、後炭、止炭、あるいは下火、初炭、後炭をいう。


三筒茶碗
(さんつつちゃわん)

 千利休が所持した、狂言袴(高麗)、挽木鞘(高麗)、ねの子餅(唐津)の三碗をいう。


三伝家
(さんでんけ)

 村田珠光の茶を受け継いだ、千利休、古田織部、小堀遠州をいう。


三柄杓
(さんびしゃく)

 点前をする過程で扱う、置柄杓、切柄杓、引柄杓をいう。


三露
(さんろ)

 ①初水、中水、立水の露地の打ち水のこと。 ②掛け物の風帯の露、花の露、茶杓の露。 ③心の露、雨露の露、露地の露。 ①の場合は、三炭と合わせて、「三炭三露」といいならわしている。


茶入三品
(ちゃいれさんぴん)

 茄子、肩衝、文琳の三種をいう。また、丸壷を加えて茶入四品という。


天下の三舟
(てんかのさんしゅう)

 淡路屋舟、針屋舟、松本舟の大名物砂張(さはり)三日月形釣舟花入をいう。これに舟(ひらたぶね){*漢字が出ない、舟に帯と書く}、茜屋舟を加えて五舟という。


羽箒三種
(はぼうきさんしゅ)

 右羽、左羽、双羽をいう。


松屋三名物
(まつやさんめいぶつ)

 奈良の塗師松屋家に伝来した徐熙筆の白鷺の唐絵、漢作唐物茶入の松屋(松本)肩衝、存星(ぞんせい)の長盆の三種をいう。白鷺の唐絵と存星の長盆は伝存不明。


樂只三種
(らくしさんしゅ)

 千宗旦から松尾宗二に贈られた、樂只軒の扁額(へんがく)、銘「樂只」の一重切花入、銘「樂只」の茶入の三種の茶道具。


利休三花入
(りきゅうさんはないれ)

 千利休が小田原の陣中で作った、一重切銘「園城寺(おんじょうじ)」、二重切銘「夜長」、逆竹寸切銘「尺八」で、いずれも大名物。

四の巻

四規七則
(しきしちそく)

 和・敬・清・寂の四カ条と、「茶は服のよきように点て」「炭は湯の沸くように置き」「花は野にあるように」「夏は涼しく冬暖かに」「刻限は早めに」「降らずとも傘の用意」「相客に心せよ」の七カ条で、千利休の茶の湯精神を要約した心得。


四家
(しけ)

 利休流上下四家元として、表千家、裏千家、武者小路千家、薮内家をいう。


四滴茶入
(してきのちゃいれ)

 陶製の薄茶器で、水滴、油滴、手瓶(てがめ)、弦付(つるつき)の四つをいう。


四役石
(しやくいし)

 ①蹲踞の四役石は、前石、手燭石、湯桶石、鏡石。 ②中潜りの四役石は、客石、乗越え石、亭主石、踏捨て石。 ③雪隠の四役石は、乗石(二つ)、小用返し石、裏返し石。


宗旦四天王
(そうたんしてんのう)

 千宗旦の高弟で、藤村庸軒、山田宗偏、杉木普斎と、残る一人には松尾宗二、三宅亡羊、久須美疎安の名があげられる。


四大懐紙
(よんだいかいし)

 熊野懐紙、北山懐紙、聚楽懐紙、二条懐紙をいう。


五の巻

五つ棚
(いつつたな)

 紹鴎棚、袋棚、四方棚、丸卓、小卓をいう。


茶入五箇所の見所
(ちゃいれごかしょのみどころ)

 茶入の形の見所として、口、肩、胴、腰、底の五箇所の均整がとれたものをよしとする。


茶の湯五時
(ちゃのゆごじ)

 茶事を催す時間が異なる、朝茶、正午、菓子、夜咄、跡見の五種をいう。


名物五つ茄子
(めいぶついつつなす)

 富士茄子、曙茄子、七夕茄子、利休小茄子、豊後茄子で、いずれも名物、大名物の漢作唐物茄子茶入。


湯相の五段階
(ゆあいのごだんかい)

 湯加減を千利休が、蚯音(きゅうおん)、蟹眼、連珠、魚眼、松風の五つに分け、松風をよしとした。


炉の五行
(ろのごぎょう)

 炉中に備わる、木(炉縁)、火(灰)、土(炉壇)、金(釜)、水(釜の中の湯)をいう。


六の巻

薄器六器
(うすきろっき)

 雪吹(ふぶき)、面中次、頭切(ずんぎり)、薬器、白粉解(おしろいとき)、茶桶(さつう)をいう。


瀬戸六作
(せとろくさく)

 織田信長が選んだと伝える瀬戸の名工で、加藤宗右衛門(春水)、加藤長十、加藤市左衛門(春厚)、加藤茂右衛門(徳庵)、俊白(一説に宗伯)、新兵衛が知られている。


織部六作
(おりべろくさく)

 吉兵衛、江存(こうぞん)、宗伯、新兵衛、源十郎、茂右衛門の六人の陶工をいう。


天下六瓢箪茶入
(てんかろくひょうたんちゃいれ)

 名物漢作唐物で、上杉瓢箪(大友瓢箪)、稲葉瓢箪、玉津島瓢箪{以上現存}、佐久間瓢箪、真珠庵瓢箪、茶屋瓢箪をいう。


灰形六種
(はいがたろくしゅ)

 風炉の灰形で、二文字押切、二文字掻上、丸灰押切、丸灰掻上、遠山、向一文字前谷をいうが、流儀や風炉の種類によって差違がある。


与次郎六口
(よじろうさくろつくち)

 釜師辻与次郎作の名品で、松平讃岐守殿(所持の釜)、丸霰百会釜(まるあられひゃっかいのかま)、利休所持姥口、鐶付鬼面、惣霰、羽落をいう。


六古窯
(ろっこよう)

 室町時代後期に開かれた窯場で、備前、丹波、信楽、瀬戸、常滑、越前をいう。


六宗匠
(ろくそうしょう)

 村田珠光、鳥居引拙、武野紹鴎、千利休、古田織部、小堀遠州をいう。


七の巻 

薄器七種
(うすきななしゅ)

 尻張棗、大棗、中棗、小棗、つぼつぼ棗、碁笥(ごけ)棗をいう。


遠州七窯
(えんしゅうなながま)

 小堀遠州好みの茶陶を製作したという窯で、志戸呂(遠江)、膳所(近江)、上野(豊前)、高取(筑前)、朝日(山城)、古曽部(摂津)、赤膚(大和)をいうが、古曽部と赤膚は遠州没後の開窯といわれている。


光悦七種
(こうえつしちしゅ)

 本阿弥光悦作の代表的な茶碗で、不二山、雪峰、障子、毘沙門堂、雪片、鉄壁、七里をいう。一説には、加賀光悦、雨雲、時雨、鉄壁、有明、紙屋、喰違ともいう。また光悦十作は、黒光悦、加賀光悦、喰違、鉄壁、有明、障子、雪片、不二山、ヘゲメ、毘沙門堂をいう。


御本七作
(ごほんしちさく)

 日本からの注文の御本を焼くために、朝鮮の釜山釜に派遣された七人の対馬藩士のこと。七人とは、玄悦、茂三、小道二、小道三、弥平太、意春(太平)、徳本。また、彼らが焼いた作品をもいう。


七事式
(しちじしき)

 茶道の心技の練成を目ざして制定された式作法で、花月、且座、廻り花、一二三の式、員茶、茶カブキ、廻り炭の総称。


七種の建水
(しちしゅのけんすい)

 大脇差、差替、棒の先、鉄盥、鎗の鞘、瓢箪、餌ふごをいう。


七種の天目
(しちしゅのてんもく)

 中国宋代の天目茶碗で、曜変、建盞、烏盞、油滴、灰被、黄盞、玳皮盞をいう。


七種の棗
(しちしゅのなつめ)

 彭祖宗哲(三代中村宗哲)作の、秋野棗、夜桜棗、芽張柳棗、凡鳥棗、根来亀棗、菊大棗、高台寺棗をいう。


七種の蓋置
(しちしゅのふたおき)

 一閑人、三つ人形、三つ葉、五徳、火舎、栄螺(さざえ)、蟹をいう。それに対して、印、惻隠、糸枠、井筒、太鼓、輪、鈴を裏七種という。


瀬戸の七茶入
(せとのななちゃいれ)

 中興名物の瀬戸茶入で、在中庵、釣舟、畠山、可中(わくらば){以上古瀬戸肩衝}、伊予簾(古瀬戸尻膨)、相坂丸壷(古瀬戸丸壷)、吸江(古瀬戸真中古窯面取手)をいう。


茶事七式
(ちゃじしちしき)

 一定の形式を備えた茶事で、朝茶事、正午の茶事、夜咄の茶事、暁の茶事、飯後の茶事、跡見の茶事、不時の茶事をいう。


長次郎七種
(ちょうじろうしちしゅ)

 樂長次郎作の茶碗から千利休が七種を選んだもので、検校(けんぎょう)・早船(はやふね)・木守(きまもり)・臨済{以上赤}、大黒・東陽坊・鉢開(はちひらき){以上黒}をいう。


長次郎外七種
(ちょうじろうそとしちしゅ)

 雁取(がんとり)・閑居(かんきょ)・小黒(こぐろ){以上黒}、一文字・太郎坊・聖(ひじり)・横雲{以上赤}がある。


ノンコウ七種
(のんこうしちしゅ)

 楽家三代道入作の茶碗で、獅子・升・千鳥・稲妻{以上黒}、鳳林(ほうりん)・若山・鵺(ぬえ){以上赤}をいう。


ノンコウ後窯七種

(のんこうのちがましちしゅ)

 長次郎茶碗の写しの検校、貧僧、大黒、小黒、鉢の子、早船、小雲雀をいう。


利休七哲
(りきゅうしちてつ)

 千利休の高弟七人をさす呼称で、表千家四代江岑宗左は、蒲生氏郷、高山右近、細川三斎、芝山監物、瀬田掃部(かもん)、牧村兵部、古田織部をあげている。松屋久重著『茶道四祖伝書』は、瀬田掃部にかえて前田利長を、また他の茶書では、牧村兵部、古田織部を除いて、織田有楽、荒木村重、千道安などを加えている。


露地の七つ石
(ろじのななついし)

 露地に配置する役石で、手水石、前石、小口台の石(腰掛石)、踏段石、刀掛石(二段石)、待石(客石)、捨石をいう。


八の巻 

瀟湘八景
(しょうしょうはっけい)

 中国湖南省にある洞庭湖の南、瀟水、湘水付近の八つの景勝地。江天暮雪(こうてんぼせつ)、瀟湘夜雨(しょうしょうやう)、山市晴嵐(さんしせいらん)、遠浦帰帆(えんぽきはん)、煙寺晩鐘(えんじばんしょう)、平沙落雁(へいさらくがん)、漁村夕照(ぎょそんせきしょう)、洞庭秋月(どうていしゅうげつ)


八炉
(はちろ)

 本勝手と逆勝手の、四畳半切、台目切、向切、隅炉の八とおりをいう。田仲仙樵は、四畳半、一畳台目切、二畳向切、平三畳出炉、深三畳向切、長四畳、長四畳の古様、二畳台目切をいう。


九の巻 

九種の棗
(きゅうしゅのなつめ)

 大棗の、大、中、小、中棗の、大、中、小、小棗の大、中、小をいう。


十の巻 

十種香札
(じゅっしゅこうふだ)

 七事式に用いられ、順番や役割を決めたり、評定に使われる小さな札。もとは香道具である。十個の小箱に、竹または黒檀製の札が十二枚ずつ入っている。表は箱ごとに十種の植物の絵(菊・桐・松・竹・梅・桜・柳・萩・水仙・牡丹)が描かれている。


千家十職
(せんけじゅっしょく)

 千家歴代家元の好み道具をつくる茶道具作家の家系で、楽焼の樂吉左衛門、釜師の大西清右衛門、塗師の中村宗哲、指物師の駒沢利斎、金物師の中川浄益、袋物師の土田友湖、表具師の奥村吉兵衛、一閑張塗師の飛来一閑、柄杓師の黒田正玄、土風炉師の永樂善五郎の各家をいう。


茶の十徳
(ちゃのじっとく)

 茶を飲むことで身に備わる十種の徳のことで、明恵上人は、散鬱気、覚睡気、養生気、除病気、制礼、表敬、賞味、修身、雅心、行道といい、千利休は、諸天加護、睡眠遠離、孝養父母、消除重病、衆人愛敬、煩悩自在、無病息災、貴人相親、寿命長遠、悉除朦気と説いた。


伯庵十誓
(はくあんじゅっせい)

 伯庵茶碗の十の約束事。枇杷(びわ)色(全体に掛かる灰釉の色)、海鼠(なまこ)釉(胴の部分にある鉄釉の横線の色)、しみ(見込などに見られる。鉄釉による)、高台片薄(高台の幅が均一でない)、高台縮緬(ちりめん)絞り(高台内の土見が縮緬状になっている)、轆轤(ろくろ)目(水挽き轆轤跡)、切らず土(おからのような質感の土味)、茶溜まり(見込の底にある浅いくぼみ)、小貫入(全体にこまやかな貫入が入っている)、端反り形(口縁部が外に反り返っている)。


その他

習事十三ケ条
(ならいごとじゅうさんかじょう)

 表千家のおいて師匠の免許を必要とする習い事のうち、最初に習得する点前の技法で、軸飾り、壷飾り、茶入飾り、茶碗飾り、茶杓飾り、台飾り、茶筅飾り、組合点、仕組点、長緒、盆香合、花所望、炭所望をいう。


小習十六ケ条
(こならいじゅうろっかじょう)

 裏千家において師匠の免許を必要とする習い物のうち、最初に習得する点前の技法で、貴人点、貴人清次、茶筅荘、茶碗荘、茶入荘、茶杓荘、長緒茶入、重茶碗、包帛紗、壷荘、炭所望、花所望、入子点、盆香合、軸荘、大津袋をいう。


利休百首
(りきゅうひゃくしゅ)

 千利休の茶道教歌を百首集めたもの。百首の内容は、茶道の心得に始まり、点前、濃茶、薄茶、炭、釜、花などの扱いを詠んでいる。
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