茶の禅語  碧巌録

第一則 廓然無聖(かくねんむしょう)不識(ふしき)

【本則】
挙(こ)す。梁の武帝、達磨大師に問う、
「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義」。
磨云く、「廓然無聖(かくねんむしょう)」。
帝曰く、「朕に対する者は誰ぞ」。
磨云く、「識(し)らず」。
帝契(かな)わず。
達磨遂に江を渡って魏に至る。
帝、後に挙(こ)して志公(しこう)に問う。
志公云く、「陛下還(は)た此の人を識る否(や)」。
帝云く、「識らず」。
志公云く、「此れは是れ観音大士、仏心印を伝う」。
帝悔いて、遂に使いを遣わし去(ゆ)きて請(しょう)ぜんとす。
志公云く、「陛下、使いを発し去きて取(むか)えしめんとするは莫道(もとより)、闔国(こうこく)の人去くも、佗(かれ)は亦回(かえ)らず」。

【本則】
提示。梁の武帝が達磨大師に問うた、
「仏法の根本心理とは何か」。
達磨は「(廓然無聖)からりとした虚空のように聖なるものも真なるものも何もない」と答えた。
武帝が言った、「では私と向かい合っているのは誰か」。
達磨は「知らない」と答えた。
武帝にはピンと来なかった。
達磨はそこで長江を渡って魏へ行ってしまった。
武帝は後にこの話を志公に問うてみた。
志公、「陛下はこの人が誰かわかっていますか」。
武帝、「わからん」。
志公、「この人は観音が姿を変えた方で、仏法の悟りの核心を伝えたのですよ」。
武帝は後悔して、使者を出して、お迎えしようとした。
志公、「陛下が使者を迎えに行かせるのは言うまでもなく、国中のすべての人が迎えに行ったとしても、彼は戻ってきませんよ」。

【頌】
聖諦廓然、何当(いつのひ)にか的を辨ぜん。
「朕に対する者は誰ぞ」
(ま)た云う「識らず」と。
(これ)に因り暗(ひそか)に江を渡る、
豈に荊棘(いばら)生ずることを免れんや。
闔国の人追うも再来せず、
千古万古空しく相憶う。
相憶うことを休めよ、
清風地に匝(あまね)く何の極まることか有る。
師左右を顧視(みまわ)して云く、
「這裏(ここ)に還た祖師有りや」。
自ら云く、「有り、喚び来たりて老僧の与(ため)に脚を洗わしめん」。 

【頌】
仏法の根本義が虚空、いつになったら核心を得られるのか。
「私と向かい合っているのは誰か」と尋ねたら、
やはり、「知らない」と答えた。
そうして長江を渡って魏へ行ってしまった。
おかげでここはいばらが茂るほど、国が荒廃してしまった。
国中の人が迎えに行っても再び来てくれることはなかった、
永久にむなしい追憶となる。
追憶に浸るのをやめなさい、
やむことなく涼風は大地を吹き渡っているではないか。
師(雪竇)は左右を見回して言った、
「ここに祖師(達磨)はおられるか」。
自分で答えた、「いるようだ。呼び寄せて、わしの脚を洗わせよう」と。(趙州のまね?)


第六則 
日々是好日(にちにちこれこうにち)

【本則】
挙す。雲門垂語して云く、
「十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)将(も)ち来たれ」。
自ら代って云く、「日日是好日」。

【本則】
提示。雲門文偃(うんもんぶんえん)が、その弟子達に問題を提起した。
「七月十五日以前のことは問わない、十五日以後、何か一句ひねって持って来い。」

(だれも持って来なかったので)
雲門は自分で一句を作って云った、「日日是好日」と。

【頌】
一を去却(すてさ)り、七を拈得(とりだ)す。
上下四維に等匹(ならぶもの)無し。
(おもむろ)に行きて踏断(ふみゆ)く流水の声、
(ほしいまま)に観て写(えが)き出す飛禽の跡。
草は茸茸(ぼうぼう)、煙(もや)は冪冪(もうもう)
空生(くうしょう)の巌畔(がんばん)花狼藉たり。
弾指(たんじ)して悲しむに堪えたり舜若多(しゅんにゃた
動著(うご)くこと莫れ。
動著かば三十棒せん。

【頌】
唯一の根源に留まらず、多様な現象を受け入れる自在な価値転換。
天地、東西南北こんな尊厳はどこにもない。
ゆっくり歩き、流れる水の上をゆったりと歩いて渡りきるような、「日日好日」の人の尋常でしかも超絶的な生き方。
鳥の飛んだ跡という痕跡を残さぬ消息を、をありありと空中に描き出すような見事さ。
しかし毎日が「好日」だなんていって留まっていると、草はぼうぼう、霞はもやもやだ。
須菩提が、洞窟の中で座禅していると、諸天がそれをめでて空中から花を雨のように降らせた。(という故事がある)
虚空の神にとらわれている姿は残念なことだ。
動くなよ。(動け、わかったつもりでいるな)
動けば三十叩きするぞ。(動くまで性根を叩きなおしてやる)


第十二則 
麻三斤(まさんぎん)

【本則】
挙す。僧、洞山に問う、
「如何なるか是れ仏」。
山云く、「麻三斤」。

【本則】
提示。ある僧が、洞山守初(とうざんしゅしょ)に尋ねた、
「仏というのは、いったいどういうものなのですか。」
洞山は答えた、「麻糸が三斤ほどだ。」(僧衣一着分?)

【頌】
金烏(きんう)急(すばや)く、玉兎(ぎょくと)速し。
善く応ず何ぞ曾て軽触有らん。
展事投機に洞山を見る、
跛鼈盲亀(はべつもうき)は空谷(くうこく)に入る。
花簇簇、錦簇簇、
南地の竹、北地の木。
因って思う、長慶と陸大夫、解(よ)くぞ道(い)えり、
「笑う合(べ)し、哭く合からず」と。
(い)。

【頌】
日月の過ぎ行く速さのように、洞山の答えは俊敏だ。
洞穴の見事な応答は、核心を全く傷つけずに受け止めている。
機微をついた開示の仕方に洞穴のすごさがわかる、
足の悪いのスッポンと盲目の亀が、何もない谷に迷い込んだようなものだ。
どこもみな花盛り、それは洞山の答えが創り出した世界のようにめでたい。
麻どころか南には竹林、北には樹木がみっしり。
よってここで、長慶大安と陸亘を思い出す、
「笑うべきで、泣いてはならぬ」とよくも言ったものだ。
(伝灯禄からの引用)
わお-。


第十三則 
銀盌裏盛雪(ぎんわんりにゆきをもる)

【本則】
挙す。僧、巴陵(はりょう)に問う、
「如何なるか是れ提婆宗(だいばしゅう)」。
巴陵云く、「銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る」。

【本則】
提案。僧が、巴陵顥鑑に聞いた、
「迦那提婆の宗旨の根本は何ですか」。
巴陵は云った、「白い椀に白い雪を盛るように、見分けがつかぬが全くちがうものだ。」

【頌】
老新開、端的に別なり、解(よ)くぞ道(い)えり、
銀椀裏に雪を盛ると。
九十六箇応(まさ)に自知すべし、
知(さと)らずんば却って天辺の月に問え。
提婆宗、提婆宗、赤旛(しゃくばん)の下清風を起こす。

【頌】
巴陵先生、まさしく格別である。
「銀の椀に雪を盛る」とはよくぞおっしゃった。
九十六種の外道も思い知ったにちがいない。
悟らなければ天の月に尋ねてみなさい。
提婆宗よ、提婆宗よ。赤い旛の下には清涼な風が吹き起こる。


第二十六則 
独座大雄峰(どくざだいゆうほう)

【本則】
挙す。僧、百丈に問う、
「如何なるか是れ奇特の事。」
丈云く、「独り大雄峰に座す」。
僧、礼拝す。
丈、便ち打つ。

【本則】
提案。僧が、百丈懐海に聞いた、
「禅のすばらしいこととはどんなことですか。」
百丈は答えた。「百丈山にこうして独りで座っていることだ」。
僧は礼拝した。
百丈は僧を打ち据えた。

【頌】
祖域交(こもごも)馳す天馬の駒、
化門(けもん)舒巻(じょけん)して途を同じくせず。
電光石火、機変を存す。
笑うに堪えたり人の来たりて虎鬚(こしゅ)を捋(ひ)くは。

【頌】
馬祖の牧場をかけめぐる千里を走る馬、それは百丈だ。
百丈の教化は型にはまらず自在だ。
あっという間に、はたらきを変化させる。
笑うべきは、虎の鬚を引く男がやってきたことだ。


第四十四則 
禾山解打鼓(かさんよくこをうつ)

【本則】
挙す。禾山垂語して云く、
「習学、之を聞(もん)と謂い、絶学、之を隣と謂う。
此の二つを過ぐる者、是を真過と為す。」
僧出でて問う、「如何なるか是れ真過」。
山云く、「解く鼓を打つ」。
又問う、「如何なるか是れ真諦(しんたい)」。
山云く、「解く鼓を打つ」。
又問う、「即心即仏は即ち問わず、如何なるか是れ非心非仏」。
山云く、「解く鼓を打つ」。
又問う、「向上の人来たる時、如何にか接する」。
山云く、「解く鼓を打つ」。

【本則】
提案。禾山無殷(かさんむいん)が教示した、
「習学を聞といい、学を断つことを隣という。
この二つを越えることが真の超越した境地なのである」。
僧が進み出て問うた、「真の超越とは何なのですか」。
禾山は云った、「太鼓を上手に打てることだ」。
僧がまた訊いた、「仏法の最高の究極的真理とは何ですか」。
禾山は答えた、「太鼓を上手に打てることだ」。
僧はさらに訊いた、「即心即仏はともあれ、心・仏への執着を払うこととはどんなものですか」。
禾山は云った、「太鼓を上手に打てることだ」。
僧はまた訊いた、「仏の先へ踏み越えた世界の人が来た時にはどのように応対するのですか」。
禾山は云った、「太鼓を上手に打てることだ」。

【頌】
一に石を拽き、二に土を般(はこ)ぶ。
機を発するは須是らく千鈞(せんきん)の弩(ど)なるべし。
象骨老師曾て毬を輥(ころが)すも、
(いかで)か似(し)かん禾山の解く鼓を打つに。
君に報じて知らしめん、莽鹵(もうろ)なること莫れ。
(あま)き者は甜く、苦き者は苦し。

【頌】
一に石を曳き、二に土を運ぶ。
引き金を引くのならば、千鈞の強弩でなくてはならぬ。
象骨老師(雪峰義存)は毬を転がしたことがあるが、
禾山が太鼓を打ったのに及びやしない。
君に忠告しよう、ちゃらんぽらんではいかん。
甘いものは甘く、苦いものは苦いように、それぞれ独自の持ち味があるものだ。
   


第五十三則 
百丈野鴨子(ひゃくじょうやおうす)


【本則】
挙す。馬大師、百丈と行きし次(とき)、
野鴨子(かも)の飛び過ぐるを見る。
大師云く、「是れ什麼(なん)ぞ」。
丈云く、「野鴨子」。
大師云く、「什麼処に去(ゆ)くや」。
丈云く、「飛び過ぎ去れり」。
大師、遂に百丈の鼻頭を扭(ひね)る。
丈、忍痛の声を作(な)す。
大師云く、「何ぞ曾て飛び去らん」。

【本則】
提案。馬祖道一(どういつ)が百丈懐海(えかい)と旅をしていたとき、
野鴨が飛んで行くのを見た。
馬大師が云った、「これは何だ」。
百丈は応えた、「カモです」。
馬大師が訊いた、「どこへ飛んで行ったのか」。
百丈、「もう飛んで行ってしまいました」。
馬大師は百丈の鼻面をひねった。
百丈は痛みをこらえきれずうめいた。
馬大師が云った、「どうして飛び去ったことがあろうか、今ここにおるではないか」。

【頌】
野鴨子、何許(いずこ)なるを知らん。
馬祖見来たりて相共に語る。
山雲海月の情を話(かた)り尽くすも、
依然として会(え)せず、還(ま)た飛び去る。
飛び去らんと欲して、却って把住(とらえら)る。
(い)え道え。

【頌】
野鴨がどれほどかわからない。
馬祖はそれを見て語りかけた。
山の雲や海の月のさまを語り尽くしたものの、
相変わらず会得できずにまた飛び去った。
飛び去ろうとしたが捉えられた。
さあ、どうだ。
   


第四十三則 
無寒暑(むかんしょ)


【本則】
挙す。僧、洞山(とうざん)に問う、
「寒暑到来せば、如何にか廻避せん」。
山云く、「何ぞ寒暑無き処に去かざる」。
僧云く、「如何なるか是れ寒暑無き処」。
山云く、「寒き時は闍黎(そなた)を寒殺し、熱き時は闍黎を熱殺す」。

【本則】
提案。僧が洞山良价に問うた、
「寒暑が来たら、どのようにして回避するのでしょうか。避けましょうか」。
洞山、「どうして寒暑のないところへ行かないのだ」。
僧は云った、「寒暑のないところとはどんなところですか」。
洞山、「寒いときには、自らをとことん冷え込ませ、暑い時には自らをとことんうだらせよ」。

【頌】
垂手(すいしゅ)還って万仞(ばんじん)の崖に同じ、
正偏(しょうへん)何ぞ必ずしも安排に在らん。
琉璃(るり)の古殿に明月照(かがや)き、
忍俊たる韓獹(かんろ)も空しく階に上る。
 

【頌】
手を垂れて人を教化することは万仞の断崖さながらの険峻さ。
正と偏とに割るふる必要はない。
(瑠璃の古い宮殿を明月が照らすがごとく)洞山が開示した寒暑なき世界のめでたさ。
かの名犬の韓獹も自分を抑えきれずに明月を目指して階段をかけ上ってしまう。
   


第六十九則 
紅炉一点雪(こうろいってんのゆき)


【垂示】
啗啄(たんたく)の処無き祖師の心印、鉄牛の機に状似たり。
荊棘(いばら)の林を透る衲僧家(のうそうけ)
紅炉上の一点の雪の如し。
平地上に七穿八穴なることは則ち且(さ)て止(お)き、
夤縁(いんえん)に落ちざるは、又作麼(いかん)
試みに挙し看ん。【本則】
挙す。南泉(なんせん)・帰宗(きす)・麻谷(まよく)・同(とも)に去きて忠国師を礼拝せんとす。
忠路に至り、南泉、地上に一つの円相を画いて云く、
「道(い)い得ば即ち去かん」。
帰宗、円相の中に座す。
麻谷、便(すなわ)ち女人拝を作す。
泉云く、「恁麼(さよう)ならば則ち去かじ」。
帰宗云く、「是れ什麼(なん)たる心行(ふるまい)ぞ」。 

【垂示】
祖師の心印は鉄牛のはたらきのようである。(詳細は「第三十八則 風穴鉄牛機」)
雲門禅師の語に「平地の上には死人多数。荊棘の林を過ぎ得たるもの是れ好手なり」と。
紅焔を上げる炉のほとりの一点の雪のように、何の痕跡ものこさない。
平地の上では自由自在なのはさておき、
修行上の一切の他律的条件という枠組みから自由であるのは、またどうであろうか。
提起してみよう。【本則】
南泉普願、帰宗智常、麻谷宝徹は、一緒に南陽慧忠に礼拝をしに出かけた。
途中まで来て、南泉が地上に円を一つ描いて云った、
「何か示すことができれば行こう」。
帰宗は円の中に座った。
麻谷は女性のするような跪かず立ったままでの拝礼をした。
南泉が云った、「そういうことなら行かないぞ」。
帰宗が云った、「これは何という言動だ」。

【頌】
由基(ゆうき)、箭(や)もて猿を射る、
樹を遶(めぐ)ること何ぞ太(はなは)だ直なる。
千箇(せんにん)と万箇(まんにん)と、是れ誰か曾て的に中(あ)てたる。
相呼び相喚んで帰去来(かえりなんいざ)
曹渓の路上、登陟(のぼ)るを休めん。
復た云く、「曹渓の路は坦平(たいら)なるに為什麼(なにゆえ)にか登陟るを休むる」。

【頌】
楚の弓の名人、養由基が猿に矢を射るなら、
樹をぐるりと回って、何と真っ直ぐではないか。
千人でも万人いても、誰が射当てたことがあろうか。
お互いに呼び交わして、さあかえろう、
六祖慧能の住持の地である曹渓へ行く途中で上るのを止めよう。
また言った、「曹渓は道が平らなのに、何故登るのをやめるのか」。平坦な道を歩む安易さがかえって命とりになるということか。
   


第百則 
吹毛剣(すいもうのけん)


【本則】
挙す。僧、巴陵(はりょう)に問う、
「如何なるか是れ吹毛剣(すいもうけん)」。
陵云く、「珊瑚は枝枝に月を撐著(ささ)う」。

【本則】
僧が巴陵顥鑑(こうかん)に問うた、
「どういうのが吹毛剣(吹きかけた毛が切れたという伝説の名剣)ですか」。
巴陵は答えた、「珊瑚が枝の一つ一つが月光を受けとめて美しく輝いている」。

【頌】
不平を平(しず)めんと要(ほっ)して、
大巧は拙なるが若(ごと)し。
或は指(ゆびさ)し或は掌(ひらてうち)して、
天に倚(よ)りて雪を照らす。
大治(たいや)も磨礱(と)ぎ下せず、
良工も払拭すること未だ歇(や)めず。
別なり、別なり。
珊瑚は枝枝に月を撐著(ささ)う。

【頌】
高低の歪みを正さんとし、
至芸は素人目には下手に見える。(『老子』)
指さし、平手打ちし、
天に突き立ち、雪を照らし出すような巴陵の名刀の高峻なきらめきぶり。
どんな名工でも鍛え作れないほどのみごとさ、
腕の良い工人でもも磨きおおせない。
格別だ、格別だ。
珊瑚が枝の一つ一つが月光を受けとめて美しく輝いている。
 


達磨安心だるまあんじん

 雪の降りしきる極寒の日、壁に向かい続ける達磨をひとりの男が訪ねてきた。名を神光。四書五経の万巻を読み尽くしていた。
彼は、ひざまで積もった雪の中で問うた。
「心が不安でたまらないのです。先生、この苦悩を取り去って下さい。」
「その不安でたまらない心というのを、ここに出してみろ。安心せしめてやる。」
「出そうとしても出せません。心には、かたちがないのです。」
「それがわかれば安心したはずだ。かたちがないものに悩みがあるはずもない。」
神光は、達磨から慧可(えか)という名前を与えられて弟子となり、やがて第二代の祖となった。
(『無門関』第四十一則)



乾屎橛
 かんしけつ


ある僧が、雲門文隁(うんもんぶんえん)に尋ねた。

「仏というのは、どんなものですか。」
「乾いた屎橛(クソカキベラ)だ。」
(『無門関』第二十一則)



狗子仏性
くしぶっしょう

ある僧が、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)に尋ねた。
「犬のようなものにも、仏の性質はありますか。」
「ない。」
「なぜないのですか。」
「自分に仏の性質があることを知らないからだ。」
(『無門関』第一則、「従容録』第十八則)



庭前柏樹ていぜんはくじゅ

ある僧が、趙州和尚に尋ねた。
「初祖達磨は、何の目的でわが国に来たのでしょうか。」
「庭先にある柏の木だ。」
「和尚、たとえはやめてください。」
「私は、たとえなどで答えてはいない。」
「達磨は、なぜわが国に来たのですか。」
「庭先にある柏の木だ。」
(『無門関』第三十七則、『趙州録』)


趙州洗鉢 じょうしゅうせんぱつ

入門したての僧が、趙州和尚に尋ねた。
「私は、修行に入ったばかりの者です。どうか、仏教の根本を教えてください。」
「朝の食事は、終わったのか。まだか。」
「はい、食べ終わりました。」
「それならば、自分の茶わんを洗いなさい。」
(『無関門』第七則)



非風非幡ひふうひばん

風になびく幡を見ながら、二人の僧が言い争っていた。
「これは、幡が動いているのだ。」
「いや違う。風が動いているのだ。」
二人は、共に自分の説が正しいことを主張しあって、まったく譲らなかった。
そこに通りかかった六祖慧能が、言った。
「幡が動くのでも、風が動くのでもない。あなたたちの心が動いているのだ。」
鋭いところを突かれた二人の僧は、深く感じ入り、慧能に敬意をはらった。
(『無門関』第二十九則)



倩女離魂 せいじょりこん


こんな民話が中国に伝わっている。
倩女という娘に、相思相愛の恋人がいた。
しかし、彼女の父親の反対にあい、仕方なく駆け落ちをする。
数年後、子供もできたので、家に帰り、許しを乞おうとした。
だが、家に帰ってみると、もうひとりの倩女が寝たきりになっていた。駆け落ちをした日から、その姿になったのだという。ただ寝ているだけで、まったく答えない。
しかし、駆け落ちした倩女が近づいていくと、ふたりは一人の姿になり、その後は、幸せに暮らしたという。
この民話を踏まえた五祖法演が、ある僧に問いかけた。
「逃げた倩女と、寝たきりの倩女、どちらが本当の倩女なのか。」
(『無門関』第三十五則)



主人公しゅじんこう


瑞巌師彦(ずいがんしげん)は、毎日、自分にこう呼びかけた。

「おい、主人公よ。」
そして、自分で答えた。
「はい。」
また呼びかけた。
「おい、しっかりと目覚めているのだぞ。」
「はい。」
「おい、いつどこで、他人に欺かれないとも限らないぞ。しっかりするのだぞ。」
「はい、はい。」
こうした問答を生涯続けたという。
(『無門関』第十二則)



南泉斬猫なんせんざんみょう

南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで、「これはわれわれの猫だ。」「いや、こちらの猫だ。」と言い争っていた。
そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出してこう言った。
「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。しかし、さもなければこの猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
だが、だれひとりとして答える者はなかったので、猫を斬り捨ててしまった。
夕刻になって高弟の趙州が帰ってくると、南泉は、お前ならどう答えたかと迫った。
すると趙州は、履いていた草履を頭に載せると、すーっと部屋を出ていった。
「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに…。」
南泉は、そう言って非常に残念がった。
(『無門関』第十四則)



趯倒浄瓶てきとうじんびん

湖南から司馬頭陀という男が百丈のところへ来て、新しい寺を建立するので、住職になる人物を紹介してほしいという。百丈は二人の僧を試験して決めることにした。
百丈は、清めの水を入れる瓶を指して、
「これを瓶と呼ばないで、なんよ呼ぶか。」
最高の弟子に当たる華林和尚は言った。
「木っ端切れと呼んではいけない!」
次に典座(食事係)の霊祐に聞いた。
すると彼は、なんと瓶を蹴飛ばしてさっと去ってしまった。
この勢いを目の当たりに見た百丈は、典座の霊祐こそが悟りの境地にあることを知り、新寺院の住職に決めたのである。
(『無門関』第四十則)



倶胝竪指ぐていじゅし

どんな質問を受けても、ただ指を一本立てるだけの倶胝という和尚がいた。
和尚の留守にきた客が、小僧に、法の説き方を尋ねた。すると小僧は和尚のように指を一本立てた。このことをあとで聞いた和尚は、小僧のその指を切り落としてしまった。
あまりの痛さに泣き叫びながら逃げる小僧に和尚は言った。
「おい、こっちを見ろ!」
小僧が首を向けると、和尚は例の如く、指を一本立てていた。
それを見た小僧は、その場で悟った。
(『無門関』第三則)



香厳上樹きょうげんじょうじゅ

香厳智閑(きょうげんちかん)は、質問を出した。
「人が高い樹に登ったとする。口で枝にかみついてぶら下がっているだけで、手も足も樹に触れてはいない。そのとき地面にいる人が『達磨がわが国に来たのはなぜか』と問うた。答えれば樹から落ちて死んでしまう。答えなければ、禅僧として失格だ。さあ、この、ギリギリのときに、どうすればよいのか。」
(『無門関』第五則)



牛過窓櫺
ぎゅうかそうれい

五祖法演が、質問を出した。
「牛が窓のところを過ぎていく。角、頭、体や足が過ぎていった。しかし、なぜか尾が過ぎていかない。これはどうしてなのか。」
(『無門関』第三十八則)



平常心是道びょうじょうしんこれどう

趙州が修行中に、師の南泉に尋ねた。
「仏道の道とはなんでしょうか。」
南泉は、馬祖の言葉を引いて答えた。
「平常心(普段の心)が道だ。」
「では、その平常心を目的として努力すればいいのですね。」
「いや、目標とすればそれてしまう。」
「しかし、目標がなければ、道を求められません。道を知ることができません。」
「道というのは、知るとか知らないといった問題には属さない。」
(『無門関』第十九則)



拈華微笑ねんげみしょう

釈尊の晩年のこと。王舎城の近くの霊鷲山(りょうじゅせん)の頂上で説法を続けていた。
だが、ある日に限って一言もいわず、そばにあった金波羅華(こんぱらげ)という花をひとつ拈(ひね)り取って大衆の前に示した。
ほとんどの弟子達は、意味がまるでわからなかったが、ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけは、にっこりと微笑み深くうなずいた。
それを見た釈尊は、静かにこう言った。
「口で説くことはできない真実の教えの一切を摩訶迦葉に伝授することにしよう。」
(『無門関』第六則)



迦葉刹竿
 かしょうせっかん


釈尊の入滅後のこと。長い間、釈尊に仕えていた阿難が、摩訶迦葉に尋ねた。

「あなたは、釈尊から金襴の袈裟を受けつがれましたが、それ以外に何かを受けつがれたのですか。」
「阿難と!」
名を呼ばれた阿難は、しっかり答えた。
「はっ!」
その返事を聞いた迦葉は、言った。
「門前に立ててある幡を倒してこい。」
(『無門関』第二十二則)



南嶽磨磚
なんがくません

南嶽懐譲(なんがくえじょう)の弟子になった馬祖道一(ばそどういつ)は、毎日座禅ばかりをしていた。そこに通りかかった南嶽は、こう尋ねた。
「座禅をして、何を求めているのだ。」
「仏になろうとしているのです。」
すると南嶽は、何を思ったのか、落ちていた磚(かわら)を拾って盛んに磨き始めた。
「師よ。何をなさろうとしているのですか。」
「磚を研いて、鏡にしようと思っておる。」
「磚を磨いても、鏡になるわけではないですか。」
「ならば聞く。座禅をして、仏になることができるのか。」
「同じことになるのですか。」
「牛が引いている車が動かなくなったとき、お前は、牛を打つのか、車を打つのか。」
この言葉の意味を理解した馬祖は、ついに南嶽の法を嗣ぎ、天下に「江西の馬祖」の名を轟かすに至った。
(『宗門葛藤集』)



放下著
ほうげじゃく


厳陽善信が、まだ修行中のこと。趙州和尚に尋ねた。

「私は、今、一切を捨てつくして何も持っていません。さあ、私は、どうするべきなのでしょうか。」
「放下著(すててしまえ)。」
「捨ててしまえといわれても、もう、何も持っていないのです。何を捨てるのですか。」
「その、捨てるべき何もないというものを、捨て去るのだ。」
(『趙州録』)



臨済大悟
りんざいだいご


高安大愚は訪ねてきた臨済義玄に聞いた。
「お前は、どこから来たのか。」
「黄檗(おうばく)のところから来ました。」
「黄檗のところで、どんな言葉を受けたのか。」
臨済は、自分が三度の質問をしても、ただ棒で打ちすえられたことを話した。
「三度、禅の最高のところは何かと尋ねても、ただ、ひどく打たれただけでした。私にどんな過失があったのか、さっぱりわかりません。」
それを聞いた大悟は、大声でどなった。
「なんと!過失があったのかだと!そうまでして黄檗が徹底的に教えていることが、お前にはわからないのか!そこでここへ来て、くだらないことをぐだぐだとほざいているのか。この大馬鹿者め!」
たちまち、臨済は悟って叫んだ。
「なるほど、黄檗の仏法に矛盾はなかった!」
(『臨済録』行録、『従容録』第八十六則)



婆子焼庵
ばすしょうあん


ある老婆が、一人の修行僧を世話して二十年が過ぎた。いつも少女に食事を届けさせていたのだが、あるとき、少女が修行僧に抱きついて誘惑するように言った。
「さあ、私をどうなさいます。」
少女は艶然とほほえんだ。
だが僧はまったく動揺せずに言った。
「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心はまったく熱くならない。」
あっさりと断ったのである。
この言葉を聞いた老婆は、この僧を賛えるどころか本気で怒りだした。
「自分はこんな俗物を二十年間も世話していたのか!」
そして僧を追い出し、庵も汚らわしいと焼いてしまったのである。
(『道樹録』第十二則、『折中録』第五則)



他是非我
たはこれわれにあらず


道を求めて中国にわたった道元は、天童山で、ひとり典座(食事係)の老僧に会った。
真夏の炎天下だった。
典座は老骨に鞭打って椎茸を干していた。
道元は典座に言った。
「大変ですね。若いものにやらせたらどうなのですか。」
「他人がしたのでは、自分がしたことにならないよ。」
「それならば、こんな暑い日ではなく、もっと楽な日にやったらいかがですか。」
「その楽な日とはいつかね。答えてくださいな。…それは、今このときをおいてほかにはないではないか。」
道元は黙ってしまった。老典座は汗をしたたらせながら、黙々と作務にはげんだ。
(『典座教訓』)



本来無一物
ほんらいむいちもつ


五祖弘忍(こうにん)が後継者を決めるために、弟子に「詩を書いて提出せよ」と言った。
第一人者といわれた神秀(じんしゅう)が、まず提出して、満座の僧をうならせた。だが、雑用係の慧能(えのう)という男が、そのような詩は禅の精神に反するといって自分の詩を提出する。
「身は菩提樹に非ず 心は明鏡台に非ず 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん」
弘忍は、この男こそ法を嗣ぐものとして、密かに自分の衣鉢を与えた。
(『六祖壇経』)