茶史 年譜版

年号

事項 付記
729 宮中大極殿の季御読経に茶がふるまわれた。 聖武天皇が春秋二季に諸寺から百僧を請じて国家の安穏を祈願させたのち、茶が振舞われたという。
(公事根源)
760 唐の陸羽が『茶経』を表す。
770 永忠が唐に渡る。
805 最澄と永忠が唐から帰国。最澄は茶の実を持ち帰り、近江坂本の日吉神社に植えたという。 日本最古とされる日吉茶園は滋賀県大津市にある。
(日吉社神道秘密記)
806 空海が唐から茶の実を持ち帰り、肥前長崎に植えたという。
814 嵯峨天皇藤原冬嗣閑院第にて茶を喫す。 「詩を吟じ香茗(茶)を搗(つ)くを厭わず、興に乗じて宜しく雅弾を聴べし」
という記述から陸羽式の団茶とわかる。
(凌雲集)
815 嵯峨天皇が近江韓崎に行幸して、梵釈寺で永忠から煎茶を献じられる。
その後、畿内・近江・丹波・播磨の各地に茶を栽培させ、毎年その茶を献上させた。
大僧都永忠が唐にいたころは、陸羽の茶が盛んであったことから団茶であったと思われる。
日本後紀新訂増補普及版
816 最澄が弟子の泰範に茶を贈る。
894 菅原道真の進言で遣唐使が廃止される。
902 醍醐天皇が仁和寺に行幸、宇多上皇から茶を勧められる。
903 菅原道真が大宰府で茶を喫する。 (菅家後集)
951 空也が疫病の流行に対し、茶を薬用として病人に与える。 空也上人の研究その行業と思想
1107 北宋の徽宗皇帝が『大観茶論』を著す。 茶筅を使った抹茶法が記される。
1191
栄西が宋から茶の実を持ち帰り、筑前(佐賀)背振山に植えたという。
(栄西ものがたり)
1207
明恵が、栄西から送られた茶の実を栂尾高山寺に植えたと伝えられる。
茶種は「漢柿蔕(あやのかきのへた)茶入」に入れられていた。
(明恵上人の研究)
1211 栄西が「喫茶養生記」(初治本)を著す。
1214 栄西が源実朝の二日酔に茶を献ずるとともに、「喫茶養生記」(再治本)を献上する。 「去年の頃、座禅の余暇に此抄を書出しの由、これを申す」(吾妻鏡)
1227
道元が宋から漢作茶入「久我肩衝」を持ち帰り、同行した加藤景正は瀬戸焼を始める。
1239
叡尊が年始修法の結願日に鎮守八幡に供茶し、後に衆僧に呈した。
西大寺大茶盛の始まり。
(感身学正記(1)西大寺叡尊の自伝)
1262 叡尊が、北条実時の招きで鎌倉へ向かう途中、各地で民衆に茶を施す。 美濃、尾張、駿河、伊豆など9か所で「儲茶」を行った。
(関東往還記)
1267
南浦紹明が、宋の径山寺から台子以下の茶道具一式と茶書七部を持ち帰り、台子の茶式が世に広まる。
1320 鎌倉円覚寺塔頭仏日庵の什器目録「仏日庵公物目録」が記される。 多くの唐物道具の名が記されている。
1324 後醍醐天皇の廷臣が、無礼講で飲茶の会を催す。 新訳太平記を読む(第1巻)後醍醐天皇治世~楠木正成奮戦
1326 宗峰妙超(大燈国師)が大徳寺を創建する。
1330 金沢貞顕が書状で唐物や茶の湯の流行にふれる。 「から物、茶のはやり候事、なをいよゝまさりて候、さやうのくそくも御ようひ候へく候」
(金沢文庫古文書)
1332 上流武家社会で闘茶会が流行する。
1334 二条河原落首に、連歌会や茶寄合が盛んであることが記される。
1336 足利尊氏が「建武式目」を定め、連歌会、茶寄合を禁止する。 (足利尊氏文書の総合的研究)
1351 「慕帰絵詞」が描かれる。 畳の敷かれた部屋の、脇にある廊下の端で風炉釜の準備をしている様子が見られる。
(続日本絵巻大成(4)慕帰絵詞)
1366 佐々木道誉が京都大原野で百服の本非茶勝負を催す。 (佐々木道誉南北朝の争乱を操ったバサラ大名)
1403
東寺南大門に一服一銭の茶店が出る。
(「東寺百合文書」)
1404
足利義満による日明(勘合)貿易が始まり、良質な唐物が将軍家にもたらされるようになる。
(獅子の座足利義満伝)
1417 伏見御所の台所で、雲脚茶会が催される。
1437
足利義教後花園天皇の行幸を迎えた折、唐物を含む七百近くの諸道具を飾りつける。
飾りつけを行ったのは、能阿弥ら室町将軍の同朋衆たちであった。
(「室町殿行幸御飾記」)
1457
興福寺大乗院で、この年の年始に十種茶を興行する。
(中世の興福寺と大和)
1470 古市胤栄、古市一族若党と淋汗茶湯を行う。 村田珠光古市澄胤に宛てに、茶の湯に関する手紙を出す。
(以下詳細、現代仮名遣いに改)
「此の道、第一悪き事は、心の我慢我執なり、功者をば嫉み、初心の者をば見下す事、一段もったい無き事共なり、功者には近づきて一言をも嘆き、又、初心の者をばいかにも育つべき事なり、此の道の一大事は、和漢の境を紛らかす事、肝要、用心あるべき事なり、又、当時、冷え枯るると申して、初心の人体が、備前物・信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむ事、言語道断なり、枯るると云う事は、よき道具を持ち、其の味わいをよく知りて、心の下地によりてたけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり、又、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかうなからず候なり、如何様の手取り風情にても、嘆く所、肝要にて候ただ我慢我執が悪きことにて候、又は、我慢なくてもならぬ道なり、銘道に曰く、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり
1474 村田珠光が大徳寺の一休宗純に参禅し、圜悟克勤の墨蹟を与えられる。 のちのこの墨蹟は千利休が所持する。
(一休宗純の研究)
1476 「君台観左右帳記」が成立する。 (君台観左右帳記の総合研究茶華香の原点江戸初期柳営御物の決定)
1482
足利義政、東山山荘を造営。
(足利義政日本美の発見)
1522 堺で千利休が生まれる。
1526 宗長日記」「二水記」に、下京茶湯者の村田宗珠の名が見え、小座敷の茶の湯が盛んなことがわかる。
1528
武野紹鷗上洛、三条西実隆に歌道を学ぶ。
(三条西実隆と古典学改訂新版)
1532 武野新五郎が剃髪して紹鷗と号し、京四条夷川に大黒庵を営んで、茶の湯に専念した。 (武野紹鴎茶の湯と生涯)
1533 奈良の塗師松屋久政が「松屋会記」の「久政茶会記」を書き始める。
1548
津田宗達宗及・宗凡三代にわたる「天王寺屋会記」が書き始められる。
(天王寺屋会記)
1549 ・紹鷗、大林宗套より「一閑居士」号授かる。

・紹鷗の茶会に、天王寺屋宗達らが招かれ、紹鷗茄子が飾られる。

紹鷗(みおつくし)茄子は、はじめ松本珠報が所持し、百二十貫で鳥居引拙に、引拙から六百貫で紹鷗が買い取ったもので、「百貫(にたり)茄子」「九十九髪茄子」「珠光小茄子」とともに天下四茄子とされている。
1553
十四屋宗伍の最古の茶人画像
十四屋宗伍画像は大日本茶道学会が所蔵。
宗伍の名を冠した「宗伍茄子」(五島美術館所蔵)は、織田信長に伝わった後、織田三五郎から徳川将軍家の所持するところとなり、1694年には五代将軍綱吉から、土屋相模守政直に下賜される。
1554
今井宗久の「今井宗久茶湯日記書抜」が書き始められる。
1555 紹鷗の茶会で、藤原定家の色紙が掛物として使われる。 紹鷗に招かれた今井宗久と宗二が席に入ると、藤原定家によって「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも(阿倍仲麻呂)」の歌が記された掛物があり、下絵には月が描かれていたという。
1556 津田宗達が阿波の三好実休(三好長慶の弟)を訪れ、口切の茶会に招かれる。
1568
織田信長の名物狩りが始まる。松永久秀から「九十九髪茄子」の茶入、堺の今井宗久からは「松島」の葉茶壷、「紹鷗茄子」を献上される。
1569 織田信長が、京都上京の豪商、大文字屋宗観(疋田宗観)が所持する「初花」肩衝、池上如慶の蕪無花入、富士茄子など六点を召し上げる。
1570 信長が、天王寺屋宗及が所持する「菓子」絵や油屋常祐の柄杓立などを召し上げる。
1571 信長が上京衆・下京衆を集め、今井宗久を茶頭に東福寺で茶会を催す。
1573 信長が、塩屋宗悦・松江隆仙・天王寺屋宗及の堺衆三名を招いて京都妙覚寺で茶会を行う。 床には牧谿の「洞庭秋月」の絵、台子に半鶴首の釜を釣り、白天目という取り合わせで、不住庵梅雪が茶を点じた。
1574 ・信長が、名香「蘭奢待」の切取りを行う。

相国寺にて堺衆を招き、菓子の絵・紅屋宗陽進上の高麗茶碗を使用した茶会を行う。

・住吉屋宗無より朱印状をもって松本茶碗を入手。

茶会終了後、千利易(珠光香炉)と津田宗及(不破香炉)の二人が香炉持ちだということで、扇に据えた蘭奢待一包みを拝領する。
1575 ・信長が三好笑岩より三日月の壷入手。

・本願寺と和睦。円座肩衝・枯木絵・花ノ絵入手。
1576 蘭叔玄秀が「酒茶論」を著す。
1577 ・信長が、津田宗及らより名物召し置きを行い、貨狄釣花入・開山の蓋置・二銘の茶杓を入手。

荒木村重千宗易・津田宗及を摂津の尼崎城に招いて朝会を催し、天下一の鎖とされた「小豆鎖」を使う。

1578 ・信長が安土城で新年の茶会を行う。

・信長が、津田宗及より宮王釜入手、朱印状と黄金50枚を与える。

・八幡の今岡鵜右衛門より周光香炉を銀50枚で入手。

茶室は右勝手六畳敷で四尺の縁がついたもの。客は織田信忠滝川一益細川幽斎明智光秀・羽柴秀吉ら12名。道具は玉礀の「岸絵」を掛け、三日月・松島の葉茶壷、万歳大海の茶入を四方盆に乗せて使用。松井友閑が茶を点じた。
1580 千宗易が朝会で「ハタノソリタル茶碗」を使う。
1582 豊臣秀吉が山崎の妙喜庵に茶室「待庵」を千宗易に造らせ、口切の茶会を催す。

・本能寺の変で信長横死。

二畳という極小の空間に、隅を塗りこめた「室床」や「躙」の出現など、草庵茶室の基調となる要素が調えられていた。
1583 千宗易が近江坂本の朝会に、秀吉の茶頭を務める。 虚堂智愚墨蹟・紹鷗芋頭水指と蕪無花入に水だけを入れ、薄板を置いて使用した。
1585 ・2/13 古田左介(織部)が津田宗及・住吉屋宗無を招いて茶会を開き、瀬戸茶碗を初めて使用する。

・3/5 秀吉が大徳寺総見院で大茶会を開く。
・10/7 秀吉が関白任官の謝礼として、禁中小御所で茶会を開く。・12/20 秀吉が大阪城内に黄金茶室を組み立てる。
・席入は、大徳寺の僧侶、由緒ある家柄の武将、堺の茶人たちの順で、それ以降は自由であり、約200人ほどの参加があった。

・小御所の菊見の間に正親町天皇、陽光院誠仁親王、皇太子和仁親王、伏見宮邦房親王、近衛前久、菊亭春季の六人を招いて茶を点じる。このとき、千宗易が利休居士号を勅許される。

1586 ・4/19 「松屋会記」「久好会記」が書き始められる。

・8/17 「利休百会記」が書き始められる。

・11/28 「博多の豪商茶人神谷宗湛の茶会記「宗湛日記」が書き始められる。

・12/6 千利休が茶会に今焼の黒茶碗を使用する。

1587 ・1/3  大阪城の茶会で、神谷宗湛が利休に初めて会う。

・6/19 秀吉が島津氏平定後、筑前箱崎の陣所で茶会を開き、神谷宗湛・島井宗叱に、秀吉が井戸茶碗で茶を点てる。

・10/1 秀吉が京都北野大茶湯を主催し、公家・武士から庶民まで身分の差別なく八百余名が参加する。

・利休が聚楽屋敷に一畳半の茶室を建てる。

定 御茶湯の事(高札)

一、北野の森におひて、十月朔日より十日の間に天気次第、大茶湯御沙汰なさるるに付て、御名物共残らず御そろへなされ、執心の者に拝見させられるべきために御催し成され候事
一、茶湯執心に於いては、又、若党・町人・百姓以下によらず、一釜、一つるべ、一のみ物、茶こがしにても苦しからず候条、ひつさげ来、仕かくべき事
一、座敷の儀は申すに及ばず、から国の者までも、数奇心がけこれ在る者は罷り出ずべき事、付、所の儀は次第不同たるべき事
一、遠国の者まで見せられるべきため、十月朔日まで日限御延ばし成さるる事
一、かくの如く仰せ出され候儀は、わび者を不便に思し召されての儀に候条、此の度、罷り出でざる者は、向後に於いてこがしをもたて候事、無用との御異候、出でざる者の所へ参り候者も同前、ぬるものたるべき事
一、わび者においては、誰々遠国によらず、御手前にて御茶下さるべきの旨、仰せ出され候事  以上

1588 後陽成天皇、聚楽第に行幸。
・古渓宗陳の博多配流に際し、利休が送別の茶会を聚楽第の茶室で催す。
1590 ・4/11 山上宗二が秀吉の怒りにふれ、斬刑に処せられる。
・8/9 利休が京都で千少庵・松屋久好を招き、雲龍釜を用いる。
・12月 利休が大徳寺の山門に木像を掲げる。
竹の花入が茶会に登場する。
1591 ・2月 利休が秀吉に追放され、堺に蟄居。
・2/28 利休が聚楽屋敷で自刃する。
1592 ・5/28 秀吉が肥前名護屋城の茶会を黄金の茶室で行う。
・11/21
織田有楽が肥前名護屋陣中の茶会に、長四畳で残月肩衝を用いる。
席中の道具は台子をはじめ、風炉・釜・水指・柄杓立・建水・蓋置・井戸茶碗・棗・茶杓から瓢の炭斗まで、茶筅・茶巾を除いてすべてが金でできていた。
(幻の茶器小説・織田有楽斎)
1593 ・7/2 高山右近が肥前名護屋陣中に、神谷宗湛を招いて茶会を催す。
・京の西村道仁が天下一の釜師と称せられる。
(高山右近加賀百万石異聞)
1594
小堀作介(遠州)が父の新介とともに、松屋久政の茶会に参加する。
1595 藪内家一世紹智が、春屋宗園から剣仲の道号を受ける。
1596 小堀遠州が古田織部に茶の湯の指導を受ける。 (桜山一有筆記)
1597 秀吉が、「富士茄子」を前田利家に与える。
1598 秀吉が醍醐寺三宝院で花見の茶会を催す。
1599 ・2/24 遠州が伏見の自宅に松屋久好らを招いて茶会を催す。
・2/28 織部が茶会の薄茶に、瀬戸ヒヅミ茶碗「ヘウケモノ」を用いる。
・「久好茶会記」

・「宗湛日記」

1605 ・4/5 徳川秀忠が、織部の茶会に招かれる。